中沢新一『はじまりのレーニン』より

はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

「第6章 グノーシスとしての党」より。

 マルクス主義には、三つの源泉がある、といわれている。フランス唯物論ドイツ観念論、そしてイギリス経済学だ。だが、レーニン主義の三つの源泉は、それとはちがう。古代唯物論グノーシス主義、そして東方的三位一体論が、その三つである。
 笑う人として、底なしの笑いに身をゆだねる人として、レーニンはまず資質において唯物論者だ。彼はこの思想を、おもにエンゲルスの著作から学んだが、彼自身の唯物論は、それをはるかにこえて、プラトン以前の哲学者たちの伝統に直結している。プラトン唯物論者のデモクリトスを恐れていた。それは、デモクリトスが宇宙から一切の根源、いっさいの「底」を、とりのぞいてしまおうとしていたからだ。その唯物論的宇宙には、根拠をつくりだす土台がなく、すべては物質のクリナメンをはらんだ自己運動から生成されるのだ。プラトンデモクリトスの存在を無視しつづけた。そのために、西欧形而上学の伝統のなかで、ながらくデモクリトスの存在は、見てみぬふりをされつづけたのだ。
 レーニンの「物質」は、デモクリトス的な徹底性をもっている。まずそれは底なしだ。どこまでいっても根拠にたどりつくことがない、無底の運動が、あらゆるものをつくる。そして、それは自己運動をおこなう。創造されたコスモスは、その「物質」の運動をもとにしてつくられてくるが、いったん構成されたコスモスは、自分にさきだって存在しているものを無視しようとする。ここには、創造の神はいない。だが、そこには弁証法的な「ロゴス」が活動している。その「物質」によって、レーニンは、西欧形而上学の破壊にのりだそうとするのだ。
 また、彼の思想は本質において、グノーシス的である。それは、人間のかかえる反コスモス的な本性を出発点にして、コスモスの秩序にいどみかかる、革命の思想となった。ヘーゲルマルクスの思想をとおして、レーニンは自分のグノーシス的な思想原型に、明確な表現をあたえた。ヘーゲルマルクスには、ドイツ・イデオロギーの遺伝体質であるグノーシス性が、かたちを変えながら、しっかりと伝達されていたからだ。
 レーニンの最大の独創は、革命を現実化させるための「党」に、強力なグノーシス的性格をあたえたことにある。「党」は、職人的なテクネーをとおして、反コスモスの力を組織化しようとした。それは高い強度で灼熱する、純粋な流動体のようなもので、それがコスモスの支配を破壊していく。レーニンははじめて、グノーシス性に「実体性」をあたえることに成功した。しかし、その「党」は、レーニンの精神が衰弱すると同時に、たちまちにして変質をはじめ、硬直したさまざまな「党」からは、グノーシスのはなつ両義性の毒が流れ出すことになったのである。
 さらに、レーニンの思想のなかには、東方的な三位一体論が流れ込んでいる。彼は『資本論』の理解をとおして、現実を分析するための三位一体的方法の深さを知っていたのだ。この東方的三位一体論は、ローマ的=西方的なそれとはちがって、過剰せる反コスモスを、内側からつきうごかしている原理に、直接的な表現をあたえようとするものだ。
 それは、ベーメによってドイツの思想的土壌に植えつけられ、ヘーゲルによって近代化され、マルクスが『資本論』のなかで、資本主義社会の本質を分析するために用いた。だが、それがレーニンによって使われると、ドストエフスキーがたたえた、あの思想のロシア性がそこによみがえってくるから、不思議だ。土くささを失っていない聖霊が、うごめきだすのである。マルクスの思想に潜在していた「聖霊論」的な本質が、レーニンの思想と人生において、実体化する。その「聖霊」の顔はもとどおり、はっきりと東方をむいている。
 古代唯物論グノーシス主義、東方的三位一体論。この三つの源泉をとおして、レーニンの思想は、西欧の思想の伝統のなかでは無視されつづけ、隠蔽され、抑圧されてきたすべてのものの流れに、結びついていくのである。彼の思想は、三重の意味で、西欧の外に触れているのだ。ロシアというものは、実体としては存在しない。それはヨーロッパと東方の境界面に発生する、現象のユニークさをさす言葉だ。同じように、レーニン思想も、実体としては存在しない。レーニン共産主義思想は、西欧と西欧ならざるものの境界面に発生する、思想のユニークにあたえられた名称なのである。