セルジュ・ダネー『不屈の精神』より

不屈の精神

不屈の精神

p.180-

僕はものごとの現象学的な出現だけを信じていて、それで十分だった。雨の後には太陽が顔を出し、太陽の後には雨が降る。それだけだ。それは、おそらく禁欲主義のある形態だろうが、小さい頃から、僕は、楽園について教条的なまでに語られると、それほど子供っぽい寓話に頼らねばならないのかと言って反抗していた。人間の本質的な名誉というのは、そうした秩序にはなく、何の褒美も期待せず善行を成すことにあるのは明らかだったからだ。それは、今ここにある現実的な生活と、僕にまったく興味のない将来の約束との間の取引に反対するという昔からの僕の性向だ。僕が宗教を免れたのは、単に、別の世界とはこの世界であり、人々が夢見たり、欲したりする世界ではないからだった。それは、ニーチェが信じてもいないのに語った「彼岸の世界」でもなければ、「最良の世界」でも、明日を謳歌するこの世の楽園でもない。そうしたものは、僕にはつねに悲劇的に見えたし、恥ずかしい理念だった。それは、この世において最終的に救済されたという感覚、つまり、この世界が存在し、それは正しいという感覚に由来するにちがいない。余り損をせずにこの世でうまくやらねばならない。でもこの世界は、すでに別の世界なのだ。ここであろうとどこであろうと未来の歴史の希望が実現されるということにまったく興味がもてないとすれば、僕は、他者と、過程にある楽しみを共有したい、ここに居て、現実界をどのように考えるのかを見る楽しみを他者と共有したいからだった。