森毅『数学の歴史』より

数学の歴史 (講談社学術文庫)

数学の歴史 (講談社学術文庫)

「第十七章 なにゆえに、集合論が「革命的」であったのか」より。

集合論の契機としては十九世紀流の「純粋数学」と「応用数学」の契機、そしてまた、数学の歴史全体としての潮流が意識されてよい。《極限論は微分法の真の形而上学的基礎である。それはけっして、ふつう言われるように無限小に関するものではなく、もっぱら有限の量に関係する》とダランベールが言ったのは『百科全書』(一七八四)においてであったが、そのコーシーによる展開はドイツの形而上学的伝統と結合したとき、すでにボルツァノとヴァイエルシュトラウスにあっては、「実数論」の域に達していた。直線は連続体でありながら、その各点は個別的にある、という問題は、〈無限と連続〉をめぐって、数学と哲学の間を往復していた。古くはエレア派に遡ることもできるし、スコラ神学の中に多くの問題意識を探ることもできる。そして、フランスの百科全書派がこの問題を数学の課題とし始めたちょうどそのころ、ドイツではカントの二律背反が、そしてやがてヘーゲル弁証法が論じられた。そして、ボルツァノやヴァイエルシュトラウスによる実数の極限論的性質の解明という、純粋に数学的な探究がそのあとに来る。このことは、エレア派以来の「哲学」の課題を、はじめて「数学」の軌道にのせることに成功したかに見えた。啓蒙的科学主義は、その勝利を誇ってよかったのだろうか。
 一方、ガウスからリーマンにいたる〈空間〉概念の成立は、一般的な数学的対象を外延的表象においてとらえること、一種のデカルト普遍学の達成を可能にしていた。しかも、それは表象の実現ばかりではなく、代数的法則性の明示において、デデキントによってきわめて有効に用いられた。代数的法則性の顕在化、現代流にいえば代数的構造の抽出はデデキントにおいて著しいわけだが、それはガウスやディリクレを継ぐクンマーの数論を、明示的に扱うことを可能にした。
 一般にデデキントにおいて著しいことは、法則性に抽出であって、とくに順序構造の抽出が、「デデキントの実数論」を産み出す。ここではすでに、対象における法則性の自立、すなわち公理主義的な二十世紀にあっては〈数学的構造〉とよばれるべきものが、萌芽的に現われているわけだ。そして、「実数論」はすでに確実な姿を現わす。それは、ユードクソスのものと本質的に違わないではないか、と言うことも可能であるが、ボルツァノやヴァイエルシュトラウス潜在的実数論が、デデキントやカントルの顕在的実数論へと発展する過程は、ただの「厳密主義」や「形而上学」ではなく、ましてギリシア趣味の回復であろうはずがなかった。
 カントルはデデキントの親友でもあった。そして、「カントルの実数論」は、コーシーによって究明された極限概念に基礎をおいていた。この二つの実数論において、ギリシアにその起源をたずねて、区間の端もしくは二直線交点としてのデデキントの実数にユークレイデスあるいはユードクソスを、区間のはばを縮めて〈位置の表象〉として点をみるカントルの実数にピュタゴラスを、それぞれに想起することも可能であろう。いずれにしても、同値であることが数学的に証明されるこれらの実数論において、点と実数に関する形而上学的議論は、完全に数学の定式にうつされたかに見えた。
 さらにカントルは、「点集合論」を不連続点の集合の議論から出発させた。二十世紀の抽象数学の用語法を用いれば、それは「位相空間論」になる。〈実数の連続性〉に関する諸法則が、〈位相〉すなわち点のつながりぐあいの法則として研究対象になること、それは位相構造の自立の一歩でもあった。
 このことは、位相構造としての連続性を捨象した「対象そのもの」を表面に出す。その対象の集合が無限個の要素をもっていれば、その〈無限〉そのものが問題にされざるをえない。
《わたしは、無限を「もの」として扱うことに反対する。そのような概念の使い方は数学では許されていない。無限の本当の意味は極限過程にすぎない》といったのは、慎重なガウスであったが、ここに《アウグスティヌス以来はじめて(カントル)》、無限そのものが問題にされたわけである。そして、自然数のようにドンドンとっていく構成可能性の無限と、実数のようにベッタリある連続的存在としての無限とが、(無限)個数の程度として区別されるべきことが明らかにされ、それはひとつのスキャンダルですらあった。
 こうして、無限をさけて有限の論理から出発した十九世紀の道は、ひとつの終着点に達する。ヘーゲルがあれほどまでに執着した〈個物と全体〉の弁証法は数学的表現を見出だし、形而上学は最終的にまで数学に蚕食されていった。しかし、それは、かつてバラダリア島のサンチョ・パンザを困らせた《すべてのクレタ人は嘘つきだといったクレタ人(パウロ)》の亡霊によって復讐されることになる。いくつかの「無限の逆説」がつくられる。こうして、《集合論のいやはての限界において、実際の矛盾が姿を現わしたのであった。しかしその根源は、すでに数学の端緒から犯されていた大胆さ、構成的可能性の場をそれ自身において存在する対象の完結した集合体として扱うという大胆さの中にだけ見られるのだ(ワイル)》。
 本質的に有限的な論理によって、無限の形而上学をねじふせ、数学から形而上学を追放しようとした十九世紀の夢がここで挫折する。