ポール・ド・マン『美学イデオロギー』より

美学イデオロギー

美学イデオロギー

ヘーゲルの『美学』における記号と象徴」より。

 結局のところ、『美学』がそうであるように、ヘーゲルの哲学そのものが、歴史の(そして美学の)哲学であるとともに哲学の(そして美学の)歴史なのであって−−実際ヘーゲルの全テクストにはたしかにこのような二つの対照的な表題をもったテクストが含まれている−−、そうしたヘーゲルの哲学は、じつは哲学と歴史との乖離のアレゴリーになっている、と言わねばならないだろう。それをもう少しここでの関心に即して限定していえば、文学と美学との乖離のアレゴリーともいえるだろうし、もっと狭く限定して、文学的経験と文学理論との乖離のアレゴリーといってもよい。いずれにせよ、こうした乖離について嘆いてみたり讃えてみたところで無駄である。それが生じた原因それ自体は歴史的ではない、つまり歴史を遡って取り戻せるようなものではないからだ。その原因はむしろ言語にもともと内在している。要するに、主語と述語をつなげたり、記号とそれが象徴する意味作用をつなげたりすることが、不可避でありながら不可能であること、ここにこそ乖離の原因は内在しているのである。そのかぎりにおいて、経験が思惟へと変化し、歴史が理論へと変化するやいなや、ヘーゲルの場合がまさにそうだったように、かならず乖離が顕現することになるだろう。文学理論が今日これほど評判が悪いのも、何ら不思議なことではない。しかも思惟や理論がそれとして浮上すること自体、そもそもわれわれの思惟が避けたいとか統御したいとか望めるような事柄ではないわけだから、文学理論の評判が悪いのはますますもって当然のことなのである。