ガタリ『カオスモーズ』より

カオスモーズ

カオスモーズ

p.88-

機械は非物体的な参照(あるいは価値)の宇宙がいくつも集まった星座状配置を背景に実存の領土を成立させる焦点と常に同義です。こうして存在の方向転換が起こるわけですが、その「メカニズム」は機械を構成する言説性セグメントの一部が機能、あるいは意味作用を担う方向でふるまうだけでなく、実存の生成につながる純粋な強度的反復の機能も引き受けることで成り立つのだし、私がリトルネロの機能と名づけたのも実はこの強度的反復のことだったのです。平滑化とは存在論リトルネロと同じようなものですから、テクネーをつうじて存在の一意的真理をとらえようとしたハイデガー存在論から距離をとり、むしろパトスとマッピングによって存在に達する手段を手に入れた時点で私たちに与えられるのは、数多くの存在が機械となった姿だと考えるべきなのです。存在ではなく、多種多様な存在論的構成要素があらわれたなら、そこはすでに機械の次元たりえているのです。しかもしれが記号学的媒介にも、超越的コード化にもさらされることのないまま、直接「存在−の−贈与」として、贈与の実行として出現するのです。そうした「贈与の行為」に手が届いているようなら、みずからも贈与に参加することは存在論的に見て当然の権利と考えていいでしょう。ここで権利という言葉を使ったのは偶然ではないし、またそうであればこそ存在論の原型が生まれる水準に達したとき、すでに倫理の原型となる次元を明確に打ち出すことが必要になるのです。存在論的配置の強度的ふるまいは、いわば一個の選択であり、その際に選ばれるのが自己のためだけでなく、他者たる宇宙全体のためにも、無窮の時間のためにも存在しようとする姿勢なのです。