ドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』より

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

「3 BC10000年−−道徳の地質学(地球はおのれを何と心得るか)」より

内容と表現のとるさまざまな形象は、段階などではない。生物圏も精神圏もなく、いたるところあるのはただ唯一の同じ〈機械圏〉なのだ。まず第一に、諸地層をそれ自体として検討してみるなら、そのうちのどれかが他の一つより組織化の程度において劣るということはできない。基層の役割を果たす地層でさえそうなのだ。つまり、固定した秩序というものはなく、ある地層は、段階や度合の観点から見て、必要と思われる媒介とは無関係に、別の地層に対して直接、基層の役割を果たしうるのである(例えば、有機的現象にとっての無媒介な基層としてのミクロ物理学的領域)。[……]他方、存立平面を検討してみるならば、人は、それがすみずみまで実に雑多な物と記号によって貫かれているのに気づく。記号の断片は科学的相互作用に隣接し、電子は言語に衝突し、ブラック・ホールが遺伝子のメッセージをキャッチし、結晶作用が情念を生み出し、蜜蜂と蘭が一つの文字を横断する……。こうしたことは、何かの「ように」生じているのではない、つまり「電子のように」とか「相互作用のように」ではない。存立平面とはあらゆるメタファーの廃絶であり、すべて存立するものは〈現実〉なのだ。それらは電子そのものであり、真のブラック・ホールであり、現実の細胞小器官、真正の記号シークエンスなのである。ただし、それらはみずからの地層から引き剥がされ、脱地層化され、脱コード化され、脱領土化されており、そのことによって、存立平面においてそれらの隣接と相互浸透が可能になるのである。沈黙のダンス。存立平面は、水準の差異や大きさの次元や距離を受けつけない。それは、人工的なものと自然なものとのどんな差異も受けつけない。それは、内容と表現の区別も、形式と形式化された実質の区別も受けつけない−−、こうしたものはただ、地層によってのみ、そして地層との関係によってのみ存在する。