江川隆男『死の哲学』より

死の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

死の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

スピノザは、ドゥルーズによれば、たとえ悲しみのなかにあっても、いかにしてこの悲しみから喜びへの移行を可能にするような出会いを積み重ねるかを問題にして、一般性のもっとも低い共通概念の形成というかたちで一つの新しい実践哲学をつくり出した。しかし、これに対してアルトーの問題は、まさにいかなる概念もなしに、しかし同時にいかなる否定も欠如もなしに、或る実在的な無能力を行使すること(例えば、叫ぶこと、あるいは叫びをともなって息をすること)によって、どのようにして身体の本質を震え上がらせるような演劇を、つまり〈残酷の演劇〉を生起させるのかということである。前者には恐怖の問題があるが、しかし後者には残酷の問題がある。スピノザには存在の恐怖から本質の至福への平民の問題があるが、アルトーには存在の無能力による人間の本質の変形という難民の問題があるのだ。前者では〈永遠の相〉のもとに身体の本質を考えることが問題となるが、後者では〈連続変形の相〉のもとに身体の本質を投射することが課題となるのである。自己を中心にして外部の物との出会いを有機化することなどとても不可能であり、それとともに身体と精神の活動力能の増大(=喜び)への移行、転換の道は閉ざされ、その可能性はまったく尽きてしまったような状態にあるが、それでも自己の実現の力能たるコナトゥスは発動し続けている。たとえ喜びの対象との出会いの可能性がまったく失われているとしても、自己の実現の力能は、自己のその本質へと逆流して、存在のなかで対応するような表現をいっさいもたないとしても、そのすべてが変化するような自己触発、自己変形というもっとも特異な出来事をいかなる受肉もなしに実現する−−つまり、反−実現する−−のである。