ヘーゲル『美学講義』より

ヘーゲル美学講義〈上〉

ヘーゲル美学講義〈上〉

ヘーゲル美学講義〈中〉

ヘーゲル美学講義〈中〉

ヘーゲル美学講義〈下巻〉

ヘーゲル美学講義〈下巻〉

目の前にある個物のなかに理念は現実に存在しています。が、理念が直接にそこにあるということは、同時に外界とのいざこざに巻きこまれることであり、外の状況に左右されたり、目的と手段の関係に組みいれられたり、要するに、その場その場の条件に引きまわされるということです。というのも、自己完結しているかに見える個物ですが、統一体として身を守るには他者を強く排斥しなければならないし、個としてあることは限定された存在でしかないということであって、自分の外にある全体の力によって否応なく他と関係づけられ、複雑きわまる依存の関係が生じるからです。このような個物のなかで、理念の各側面は個として実現され、理念そのものは、個々の存在を、−−自然的存在をも精神的存在をも含めて−−たがいに関係づける内的な力にとどまります。この関係が個物にとっては外部との関係であって、多岐多端な相互依存関係を、他者による制約、という外からの強制としてあらわれもする。この面からすると、個としてそこにあるということは、一見独立しているように見える個体や諸力のあいだに、必然的な関係の網の目が張りめぐらされているということであり、そこに編みこまれた個物は、自分以外の目的のための手段として利用されたり、外部の存在を手段として利用したりします。そこでは、理念は一般に外との関係というかたちで実現されているにすぎず、したがって、わがままや気まぐれが大いに許されると同時に、がんじがらめの必要に縛られることにもなる。自然に生きる個物の世界は不自由の領域です。[……]日常の生活領域にある個人は、美の概念の根底をなす、独立した全体的な生命力と自由を発揮できない。人間の日常的現実やそこでの事件や機構組織とて、一定の体系立った全体的な活動がないわけではないが、全体が個の寄せあつめとしてしかあらわれない。仕事や活動が無限に多くの部分に分割・分離され、個人は全体の一小部分にたずさわるにすぎない。個人がどんなに自分の目的に執着し、自分一個の利害のからむ事柄を実現しようとしても、意思の独立と自由は、多かれ少なかれ形式的なものにとどまり、外部の状況や偶然に左右され、自然の阻害要因に出会って押しもどされます。
 散文的な世界というものは、自分の意識にとっても、他人の意識にとっても現実がそのようなものとしてあらわれる世界のことで、いうならば、有限と変化の世界、瑣事に巻きこまれ、逃れようもなほど強い強制力の働く世界です。この世界では、生きた個人が、完結した個として自立したいと思いつつ、どうしても他人に依存せざるをえないという矛盾のなかに置かれ、矛盾を解決するためのたたかいも、たえざる戦闘の追求とその持続という域を越えられないのです。