宮沢章夫『茫然とする技術』より

茫然とする技術 (ちくま文庫)

茫然とする技術 (ちくま文庫)

「小走りの人」より。

 人は、どういった理由から、「走る」ことになったのだろう。狩猟民族はわかるのだ。獲物を獲得するのに、走らなければならない理由があったはずで、とろとろしていたら、逃げられてしまう。逆に、捕まえようと思った獲物に反撃され、追われることもあっただろう。
 走らなければならない。
 必死だ。死にものぐるいだ。ちょっとでもスピードをゆるめれば襲われる。生死に関わる問題である。狩猟民族は走った。可能な限りスピードを上げようと、走ることに対して意識的になり、研究もし、鍛錬すらしたかもしれない。
「俺が思うに、右足を前に出したら、すかさず、左足を出すべきじゃないのか」
 あたりまえである。だが、そうした単純だと思えるような問題も狩猟民族の者らは必死に考えた。繰り返すが生死に関わる問題だったのだ。「だったら、そのとき、腕を、こう、ぐるぐる回すのはどうだ」と言い出す者もいたかもしれない。
「それはどうかな」
 長老が、「腕をぐるぐる回す理論」を唱える若者の言葉を遮ってそう言った。議論は白熱する。「腕を組んで走るのはどうか」とか、「腕を上に上げて万歳するのもいいんじゃないか」という者すら現れる。さらに革新的な理論も提出された。
「動物が速いのは、あれ、前の足も使っているからじゃないか」
「数はな」
「そうだろ、多い方がいいにきまってるだろ」
 黙って聞いていた長老は再び言う。
「それはどうかな」
 なおも議論は白熱する。そしてきっと誰か言い出すだろう。
「だったらやってみようじゃないか」
 そうして実践され、さらに改善が施され、走ることの研究は深化されるが、ある日、ふとしたことから新たな発見がある。
「前かがみに走るとなんだか速い気がする」
 とんでもない意見である。それまで人々は、背筋をぴんと伸ばし、むしろ後ろに反り加減で走っていたのだ。
「なんだって」
「前かがみだよ、前かがみ」
 そして誰かが言い出すだろう。
「やってみようじゃないか」
 狩猟民族は走る。その意味はよくわかる。だとしたら、農耕民族はどうだったのだろう。なにか走るべき理由が存在したのだろうか。
「ものすごいスピードで遠くにある芋を取りに行く」
 そんな必要があっただろうか。
「広大な農作地の向こう側に鍬を置き忘れたので走って取りに行く」
 狩猟民族の走りにあった、「生死の問題」とはまるで異なるもの、しいていうなら、なにか間抜けさがここには漂っていないだろうか。そんな農耕民族である。彼らさえ、「走る」に意識的になるとしたら、そこにはよほどの状況が出現したのだろう。それは、「闘争」だったかもしれない。あるいは「伝達」、そして「がむしゃらな恋」「借金取りに追われる」「泥棒」など、様々な事情が人を走らせることになったはずだが、なんにせよそこには、ある特別な状況が存在するはずだ。