デリダ『名を救う』より

名を救う―否定神学をめぐる複数の声 (ポイエーシス叢書)

名を救う―否定神学をめぐる複数の声 (ポイエーシス叢書)

p.85〜

他者−−それは不可能なものである−−に随従することは結局、他者の方に向かっていきながら自分を引き渡すこと、敷居を通過することなく他者に到来すること、他者を接近不可能なままにしておく不可視性を尊重し、さらにはそれを愛することである。それはつまり、武器を引き渡すこと=降伏すること[rendre les armes]である。(また、この場合、引き渡すことは完全無欠さを復元し再構成することを、協定や象徴的なもののもとで結集することをもはや意味してはいない。)敗北することなく、戦争の記憶も計略もないままに、[他者の]武器に随従することと[自分の]武器を引き渡すこと=降伏すること[Se rendre et rendre les armes]。放棄された状態がなおも、誘惑の術策や嫉妬を代補する戦略要素ではないようにすること。さらに、すべては無傷のままにとどまるだろう−−そして、他者をあるがままにしておく、否定の道を通過した後の嫉妬のない愛が。私があまり自由自在に解釈を加えないとすれば、否定の道はすべてを放棄した状態、禁欲、一時的な無化[ケノーシス]の運動ないしは契機をたんに構成するだけではない。(愛された)他者が他者であり続けるために、すべてを放棄した状態は作用し続け[rester a' l'oeuvre](それゆえ営為を放棄し[renoncer a' l'oeuvre])なければならない。他者とは神ないしは〈誰でもよい誰か〉であり、まさしく任意の特異性に他ならない。あらゆる他者がまったき他者なのである。その証拠に、もっとも困難なこと、さらには不可能なことは、特定の他者が〈誰でもよい他者〉となるために自分の名を失う、あるいは自分の名を変えるということである。放下[ゲラッセンハイト]は私たちの内で行使され、任意の他者によるこうした無差異=無関心さにおいて行使される。放下は無差異=無関心のふりをして作用し[jouer a']、戯れることなく[sans jouer]、無差異=無関心を活用する[jouer de]のである。もっとも、このことはある種の静寂主義ではないにしても、少なくともシレジウスの思想のなかで放下が果たす[jouer]役割、また何よりもまず、戯れ[jeu]そのもの、戯れの情熱[パッション]が神による創造という思想のうちで果たす役割を説明する。[……]