大岡昇平『武蔵野夫人』

武蔵野夫人 (新潮文庫)

武蔵野夫人 (新潮文庫)

「第四章 恋ヶ窪」より。

 線路の土手へ登ると向う側には意外に広い窪地が横たわり、水田が発達していた。右側を一つの支線の土手に限られた下は萱や葦の密生した湿地で、水が大きな池を湛えて溢れ、吸い込まれるように土管に向って動いていた。これが水源であった。
 土手を斜めに切った小径を降りて二人は池の傍らに立った。水田で稲の苗床をいじっていた一人の百姓は、明らかな疑惑と反感を見せて二人を見た。
「ここはなんてところですか」と勉は訊いた。
「恋ヶ窪さ」と相手はぶっきら棒に答えた。
 道子の膝は力を失った。その名は前に勉から聞いたことがある。「恋」とは宛字らしかったが、伝説によればここは昔有名な鎌倉武士と傾城の伝説のあるところであり、傾城は西国に戦いに行った男を慕ってこの池に身を投げている。
「恋」こそ今まで彼女の避けていた言葉であった。しかし勉と一緒に遡った一つの川の源がその名を持っていたことは、道々彼女の感じた感情がそれであることを明らかに示しているように思われた。
 彼女はおびえたようにあたりを見廻した。分れる二つの鉄路の土手によって視野は囲われていた。彼女は自分がここに、つまり恋に捉えられたと思った。