ローベルト・ムージル『特性のない男』から

ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

第113章より。

愛するものたちが、愛している相手のことでわかることといえば、自分が言葉では言い尽くせないほどに、相手のおかげで内的活動に移されている、ということだけだ。自分の愛していない人を認識するということは、この状態では、太陽の光が死んだような壁に差しこむように、この愛の状態にその人を引き入れるということだ。また無生物を認識するということは、その特性を次々と探り出すことではなくて、ヴェールが落ちるとか、あるいは境界線が消されて、知覚世界に属さないものが現れるということなんだ。無生物の世界も、無名のままで、信頼に充ち溢れて、愛するものたちの仲間入りをしてくる。自然と、そして愛するものたちに特有な精神とは、互いに相手の目をみつめるが、それは同じ行為の二つの方向であり、二つの方向をもった一つの流れであり、両端で一つに燃えていることなんだね。そしてこのようなとき、人とか物とかを自分との関連なしに認識することなぞ、そもそも不可能だ。なぜなら、『あることを知る』ということは、そのあることから何かを奪うことなんだから。この場合相手はその姿のままでいるけれども、内部は灰と砕けているらしい。相手から何かが蒸発してしまい、残るのはそのミイラだけになる。だから愛するものたちにとっては、もう真理も存在していない。真理は思考の袋小路、思考の終わりであり、死なんだ。思考は、それが生きているかぎり、明と暗とが胸突き合わせて接している、あの炎を取り巻いて息づく炎の縁に似ている。このようにすべてが光輝いているときに、どうして個々のものがはっきりと弁別できようか?! すべてが光明に満ち溢れているときに、どうして正確さや一義性の施しなぞ必要だろうか! 愛するものたちは、もう彼ら二人だけのものではない。二つの目を互いに絡み合わせている彼らにやってくるすべてのものに、彼らは自分らを贈らなければならない状態にある。このことを体験したなら、たとえ自分に好きなものであろうと、どうしてそれを自分のためばかりに欲することなどできようか?