ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』より

生きた貨幣

生きた貨幣

サドは、彼が単純な情熱と呼ぶものから、複雑な情熱、つまりわれわれが倒錯と呼ぶものにいたるまで人間の振舞いを分析するのだが、彼が分析するような振舞いは、純粋な動物性に対する最初のリアクション、つまり衝動それ自身の最初の−−解釈をともなう−−発現にほかならない。そうした衝動の発現は、セクシュアリティという言葉が総称として包括するものを、一方は生殖行為以前に存在する情欲と、他方は種の生殖本能とに分解する力を持っている。そして、この二つの方向性が混同されることによって、自己再生産可能な個人の統一性が基礎づけられ、この二つの方向性が、個人が生体として完成したのちにも継続的に分離されると、その個人の生の機能が危険にさらされることになる。とすると、倒錯という言葉はたんに生殖行為以前の段階に情欲が固着することを指し示すわけだが、じつは、単純な情熱のかずかずが相互に結びついて複雑な情熱のかずかずを形成するというときにサドが使う単純な情熱という用語は、最初の情欲が、その解釈の能力を発揮しながら、生体のさまざまな機能のなかから興奮のあたらしい対象を選び出し、それを単純な生殖機能の代わりにすえ、それによってその生殖機能を無限に宙づりにしつづけるための、さまざまな策略を指し示していたのである。この置き換え、この策略とは何なのか。それはまさに、繁殖本能に対しておこなわれる力の天引きではないのか。天引きというかたちで取り分けられた欲動の力は、ファンタズムの素材をかたちづくり、それを情欲が解釈するのである。そして、ファンタズムはここでは、製造物の役割を果たしている。欲動の力はファンタズムを使用するわけだが、その使用は、使用と一体化する情欲にそれだけの価値を与える。そして、倒錯の場合には、情欲をかきたてるファンタズムの使用は、そのファンタズムがまさに交換不可能であることを求めるのである。体験された情欲の価値評価がはじめておこなわれるのは、ここにおいてである。つまり、個人的統一性の集団的完成を拒絶し、個人の生殖機能を拒絶するがゆえに倒錯的であるとわれわれが言った衝動は、その強度において、交換不可能であり、したがって価値の外にある=法外な価格のものとして、みずからを提示する。そして、ある個人の統一性は、身体の外見のもとに、生理学的に達成されるのであるにしても、その統一性はいわばファンタズムと交換されたものなのである。統一性はファンタズムの束縛のもとで、はじめてみずからを維持するのだから。