『オースティン哲学論文集』より

オースティン哲学論文集 (双書プロブレーマタ)

オースティン哲学論文集 (双書プロブレーマタ)

「語の意味」(1961)より

ここで誰かが、「xは延長しているが、しかし形をもたない」と言うとしよう。我々はどういうわけか、この言葉が「意味しているであろう」ことが何であるのか、理解できない−−こうした例をカバーできるような明示的な意味論的規約も、暗黙の意味論的規約もない。しかしだからといってこの言葉は決してその使用を禁じられているわけでもない−−我々が異常な状況において言ってもよいこととは何か、あるいは何を言ったらいけないのかということについての、規制的な規則は存在しないのである。面倒な問題をおこしている原因は、単に異常な状況を想像したり経験したりすることが困難だ、ということだけにあるのではない。さらに次のようなやっかいな理由がある。すなわち、我々は自分が想像しようとしているものがどのようであるかということを、まさに普通の事例を記述し想起させるための言葉を用いてしか記述できないのであり、しかも我々はこの場合にこの普通の事例を度外視しようとしているのである。日常言語は、もともと力弱い想像力に対して、さらに目かくしをするのである。かくして私が、「私はある人が在宅でもなく不在でもないといった事態を考えることができるだろうか」と言うとすれば、面倒をひきおこすことになるであろう。この言葉は理解を阻害するものである。というのも私がこれを聞いて思いうかべるのは、「彼は在宅か」と聞いて彼が家にいなければ「否」という返答を受けるような、普通の状況であるからである。しかしながら、たまたま私が最初に想像した事態が、彼が死んだ直後に私がその家を訪ねたという状況であったと仮定してみよう。私はただちに、この状況では在宅、不在のいずれもが不適切であることを見てとるであろう。それゆえ延長と有形という今の例でも、我々がなすべきことは、あらゆる種類の奇妙な状況を想像したり経験したりして、そうした後にやおら自分に向って問をつきつけることである。さあ、いまでも自分はものは延長しているなら有形でなければならないと言うつもりか、と。さまざまな奇妙な状況では、何らかの新しいイディオムが必要となることであろう。
 我々は現実の言語に関するさまざまな事実に注意を払わなければならず、また、我々が言いうることと言いえないことは何であり、それは厳密に言ってなぜそうであるのか、ということに注意を払わなければならない。しかし、こうしたことを強調することは同時に、これとは逆の論点をもはっきりさせるということである。私はこの節のしめくくりとして、最後にこのことをのべておきたい。すなわち、現実の言語をむりやり我々があらかじめ想定したモデルに合致させようとすることには無理があるが、他方、「日常言語」に関するさまざまな事実を発見したあとは、あたかもそれ以上もはや論じたり発見したりすることは何もないかのごとくに、これに満足してしまうということもまた無意味であるということである。それを記述するためにはより新しく、より良い記述を必要とするような、数多くのおこりうる事態、あるいは現におきている事態が存在することであろう。