魯迅『野草』より

野草 (岩波文庫 赤 25-1)

野草 (岩波文庫 赤 25-1)

題辞」。

 沈黙しているとき私は充実を覚える。口を開こうとするとたちまち空虚を感じる。
 過ぎ去った生命はもう死滅した。私はこの死滅を喜ぶ。それによって、かつてそれが生存したことがわかるから。死滅した生命はもう腐朽した。私はこの腐朽を喜ぶ。それによって、今なおそれが空虚でないことがわかるから。
 生命の泥は地に棄てられ、喬木を生まず、ただ野草を生む。これ、わが罪だ。
 野草は、その根深からず、花と葉美しからず、しかも露を吸い、水を吸い、死んで久しい人間の地と肉を吸い、おのがじし自分の生存を奪いとる。その生存も、踏みにじられ、刈り荒らされ、ついに死滅して腐朽するまでだが。
 だが私は、心うれえず、心たのしい。高らかに笑い、歌をうたおう。
 私は私の野草を愛する。だが野草を装飾とする地を憎む。
 地火は地中を運行し、奔騰する。溶岩ひとたび噴出すれば、一切の野草と、および喬木とを焼きつくす。こうして腐朽するものさえなくなる。
 だが私は、心うれえず、心たのしい。高らかに笑い、歌をうたおう。
 天地がかくも静謐では、私は高らかに笑い、歌をうたうことができない。天地がかくも静謐でなくても、私にはそれができぬかもしれない。私はこの野草のひと束を、明と暗、生と死、過去と未来の境において、友と仇、人と獣、愛者と不愛者の前にささげて証とする。
 私自身のために、友と仇、人と獣、愛者と不愛者のために、私はこの野草の死滅と腐朽の速やかならんことを願う。そうでなければ、私はそもそも生存しなかったことになる。それでは実際、死滅と腐朽よりも不幸だ。
 去れ、野草よ、わが題辞とともに!
              一九二七年四月二六日、
                   広州の白雲楼にて、魯迅しるす。