『テレビのエコーグラフィー』より

[……]出来事とは、到来〔出来〕するもののなかにある、わたしたちがどうしても還元したり否認したりできない(または単に否認できない)もののための別名である。つまり、いつでも他者の経験である経験そのもののための別名である。出来事は、いかなる他の概念にも包摂されない、存在の概念にさえ含めて考えられないものである。「あるil y a」ないし「無以上のなにかがある」という事態は、たぶん出来事の経験に属すものであって、存在の思想に属すのではない。出来事の来着は、わたしたちが決して妨げられないものであるし、妨げてはならないものであり、未来そのものの別名なのである。それが良いものだから、それ自体が善であるからというわけではなくて、あらゆることを、それがなんであれ到来させよ。なにかしらのことが生じるのを妨げることを諦めなければならないのではなくて(その場合、いかなる倫理的ないし政治的ないしは他の、意思決定も責任もなくなってしまうだろう)、そうではなく、未来を閉ざすとか、死をもたらすと思われているようなさまざまな出来事にしか決してわたしたちは反対せず、出来事の可能性や他者の来着の肯定的な開けに終止符を打つような出来事にしか決して反対はしないのである。出来事の思想というものが、いつでもどこかしらメシア的な空間を開いているのは、この点においてである。たとえこの空間が、どれほど抽象的で、形式的、漠たるものであっても、どれほど「宗教的」でないにしても、それは事実なのだ。