中沢新一『緑の資本論』
中沢新一『緑の資本論』から、一神教の原理と資本主義との類似性についての指摘(『カイエ・ソバージュ』でも言われてましたが)。以前読んだ部分。
一神教の神は、[……]実無限である。キリストは地上にあって、この神と同質である。ということは、人間の知性がとらえる現実の世界のうちに無限がある、あるいは有限の世界に無限が繰り込まれているという事態がおこることになる。イスラームではこういうことは絶対におきない。実無限である神の領域と、人間の領域との間には厳然たる深淵が横たわっているからだ。ところがイエスに神性を認めるキリスト教にあっては、現実世界に実無限が繰り込まれているという、とてつもないことが発生する。
ところでこの過程は、西欧的に理解された貨幣の場合と、鏡に映った反転像のように、よく似ていることに気がつく。アリストテレスがすでに語っているように、貨幣はすべてを均質化することによって、無限の概念を経済に導入する。さまざまな商品の質的差異は、貨幣という均質な流動性の中に流し込まれて、消失していくが、そのかわりに数え上げることのできる量に変化したおかげで、いつまでも数え上げることのできる数、つまり数学的無限に向かって、貨幣の増大をおこなっていこうという欲望が発生するのである。
イマジネールなものの増殖を切断する、「経済学批判」としてのイスラームについて。宗教学的な問題と経済的な問題を組み合わせていることが気になって再読した。収録してある「モノとの同盟」には、中沢がその組み合わせから考える「実践」の方向性が出ている。
宗教は、モノとの新しい同盟をつくりあげるさまざまな実践へと、解体吸収されていくのである。さまざまな実践、それは個人の探求であったり、協同の実践であったり、伝承文化運動の形をとったり、市民運動と呼ばれることもある。あらわれる形はさまざまだ。しかし、それらすべてがひとつの共通点を持つことになるだろう。それは非人格的なモノへの愛である。人間主義の狭量さを超えて、資本のメカニズムをも凌駕して、広々としたモノの領域へと踏み込んでいくのである。そのとき、宗教は死んでよみがえるだろう。宗教がみずからの死復活をおそれてはいけない。だいいち、そのことを説いてきたのは、宗教自身だったのだから。
ここで言われている「モノへの愛」はフェティッシュのことではなく、「モノ」の持つ「非感覚的な内包力」、すなわち「過剰」で「複雑な全体運動」であるものと人間を結びつけていく「同盟」のことだ…と語られている。
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