『鴎外 その側面』より

中野重治の『鴎外 その側面』を読んでいたら、ちょっとにやりとする箇所に遭遇。象徴派詩人の日夏耿之助が「鴎外の伝統」について語っている文章に、からんでる部分。

 日夏耿之助は、「鴎外とVERSUS文場」というのを書いて結論に書いている。(『鴎外研究』第七号)「夙に鴎外の伝統が今少しつよく生かされてゐたら、その直接間接の影響として、高貴が卑陋を圧へて、今ほどには柄の悪い文場ではあるまいといふのがこの一文の端的な結論である。」
 しかし「端的」にいえば、「鴎外の伝統」は曲りなり日夏あたりにも流れているといえよう。また曲りなり、たとえば小島政二郎あたり、佐藤春夫あたりに流れているといえよう。しかし彼らは、日夏のいわゆる「柄の悪い文場」にたいして何の抵抗要素となることができなかった。日夏に直接責任のあることではないが、「柄の悪い文場」などを云々するからには、日夏あたりはそのへんの事情をあらためて考えてみる必要があるのではないか。

要するに、「お前は『鴎外の伝統』が生きていればちょっとは文学界もましなはずだと言ってるが、お前自身『鴎外の伝統』を継ぐつもりでやっているはずなのに、なぜお前がいるこの現状はましなものでないのだ。そこんとこ重要だからちょっと考えてみろ」と言ってるわけですね。悪い意味でなくて、このねちっこい感じ、いかにも中野(こういう言い方をせざるをえなかった戦時下の事情等々もありますが)。でもどこかユーモアがあるんですよね。でも文章の背後を確実にとらえてゆく、論理の膂力のようなものは学びたいところです。