東浩紀・大澤真幸『自由を考える』

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

以前読んだこの本で、気になった部分を引用してみようと思う。昨日の日記とも関連があるかと。

東 [……]たとえば誰かを愛するというときに、彼女は身長が高いから低いから、顔がかわいいから、性格がかわいいからという理由で愛するとすると、これは、彼女の属性、哲学の言葉で言えば「確定記述」を根拠に愛するということです。「相手が……の属性を持っているから」愛するという経験は、その属性をもっと強力にもっている対象が現れたら、乗り換えることができるということを意味する。しかしこれは彼女自身を愛するということとは違う。ふたたび専門用語を使えば、「固有名」で愛することとは違う。こういうふうに言うと柄谷行人さんみたいだけど、こんなことは、愛するということについて真剣に考えたら、高校生でもわかることです。
 しかし、では愛とは何か。そう考えると、恋愛をするということは、原理的に相手が誰であろうと好きになる、そういう精神状態でしかないだろうという結論になる。これは奇妙に聞こえるかもしれませんが、論理的にどうしてもそうなる。相手を固有名で愛するとは、相手からいかなる属性が剥奪されても愛することである。たとえば相手が交通事故に遭って、意識がなくなっても愛し続けることができるのか。精神病にかかって人格が変わっても愛することができるのか。これはきわめて具体的な問題でもあるわけです。つまり、恋愛の概念を突き詰めていくと、相手が何ものであってもいいという、「運命的」とでもいうか、ある種空無化した概念に到達せざるをえない。『ほしのこえ』に描かれた恋愛はそういうものだったような気がします。[……]
 一方に「愛」というのはしょせん性欲処理にすぎないという諦念、というか剥き出しの身体性への回帰があり、他方には「愛」というのはもはやコミュニケーションではなく運命なのだ、というきわめて抽象化された観念があって、この二つがどうやらべったりとくっついている。

たしかに、高校生ぐらいの頃はそんなことを考えていたような気がするなぁ。こういう問いに対しての、わたしのとりあえずの思弁上の解決法は、「完全に属性を奪われた状態などありえない」し、この仮定はその前提が非常にスタティック過ぎるんじゃないか、というものだったけど。でも、それがどこまで有効かはまだ現実的に吟味中。

大澤 [……]住基ネットを含めた情報管理型社会というものがもっている基本的な原理を批判しなければならないということです。個別に見ると、何も僕らは失ってないように見えるんだけれども、全体として見れば、何かを失っているということをはっきりさせなくちゃいけないわけですね。
東 思いつきですが、いま必要なのはこんな作業だと思うんです。たとえば、労働者が自分の労働力を売って対価をもらっている。何が悪いんだと言われたら悪いわけはない。この状況を「疎外」という概念でとらえ返すことで、マルクス主義が出てきたわけですよね。それは概念の発明です。
 今求められているのも、同じタイプの発明だと思うんです。個人情報を売って代価やサービスをもらう、個人情報を売って自由をもらう、それのどこがいけないのか。いけなくないんですよ。ただはっきりしているのは、にもかかわらず、これは何かが間違っているのではないかと、多くの人々が不安を抱いているということです。その感覚を言葉や論理に変えていかなければいけない。

たしかにねー。「うまく回ればいいじゃないか」的な論理って、大抵、重要な何かに目をつぶってるんですよね。そここそ変えなきゃいけないんですけど。

東 [……]環境管理型権力の機能はゲームのコマンドを消滅させる機能です。「空を飛ぶ」というコマンドがなかったら、そのゲームの世界では空は飛べない。しかし、そのとき私たちは不自由だと思うかどうか。「空を飛ぶ」というコマンドがあって、しかしその使用が制限されているときは、私たちは不自由だと感じると思うんです。しかしもし最初からコマンドがなかったら、そう思わないのではないか。実際、この現実世界に生きている私たちは、飛ぶことができない。
大澤 それで自由がないとは誰も思わないからね。
東 むろん、それを不自由だと感じる人がいて、それで飛行機が発明されたんだとは思いますが(笑)、いずれにせよ特殊な想像力が必要とされる。

うーん、わたしは実はゲームをあまりやらないんですが、その理由がまさにこれなんですよね。コマンド自体を枠に感じるというか、すでに行為の選択肢が決まっていること自体が不自由だと感じてしまう人間なので……。まあ、ゲームをプレイするというのはそういうものではないんでしょうが。
それとあと一つ話を思い出しました。花田清輝がどこかで書いていたと思うんですが。彼は芸術家の使命を、レオナルド・ダ・ヴィンチに見て取っているんですね。ダ・ヴィンチはいろいろな発明を行っているけど、その内の有名な一つに飛行機のデザインがある。結果としてそれらは飛行できないものでしたが、花田はこのデザインを賞賛して、芸術の持つ力を読み取ろうとする。
どうしてか。それは、ダ・ヴィンチの考案した飛行機には、当時の歴史的な技術水準をはるかに越えた、あり得べき技術の様態がありありと結実させられていたからです。つまり、現行の技術において、その時代的な条件を超過したものがそこには描き出されていた。ある技術を現状に適応した形で開示するのではなく、現代に対しては反抗的ですらありうる用途を見いだすこと。花田式に考えると、技術の現代性を見て取りつつ、そこに未来の思考を接木してゆくことにこそ、理論的なものと芸術の使命のひとつがあるんじゃないかとも思えますね。

Leonardo Da Vinci: The Complete Paintings And Drawings

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