『となり町戦争』と超越論的態度

となり町戦争

となり町戦争

昨日の読売新聞夕刊で星野智幸さんが『となり町戦争』を推薦してました。その推薦が面白そうで読んでみたいなと思わされたのでちょっとメモしときます。

 ちまたで静かに話題となっている三崎亜紀『となり町戦争』(集英社)は、ちまたで静かに戦争が始まる話である。とある町の役場が、地域の活性化のために公共事業として、隣の町と戦争を起こす。語り手「ぼく」は、町役場から「偵察業務従事者」に任命され、担当の女性、香西さんとともに隣町へ居を移す。だが、「ぼく」の前に戦闘や流血の場面は現れず、平穏な町の風景は変わらない。数字の上では戦死者が増えるのに、最後まで戦争の実感は得られない。
 どんな非情な行為が陰では行われているのか、この戦争の実態は何なのか、そういった謎解きを期待すると肩すかしを食らう。この小説は戦争の実態を書こうとしたものではなく、戦争に現実感を抱けない私たち自身の、不気味な自画像なのだ。
 作者は、戦争だけでなく人間さえも幻影であるかのように描く。自分の意思で自分の生を生きている人物はいない。誰もが、正体のよくわからない「戦争」なるものに従って受け身に生かされる。公共事業なのに、誰のどんな利益になっているのかも不明だ。

星野智幸アーカイヴス http://www.hoshinot.jp/
ちなみに下の文章は、アマゾンの推薦文です。

どうぞ、戦争の音を、光を、気配を、感じ取ってください――。ある日届いた「となり町」との戦争の知らせ。僕は町役場から敵地偵察者に任命される。傍目には普段と変わらぬ日常の中、戦時下の実感を何も持てないまま、けれど戦争は進行していく。第17回小説すばる新人賞受賞作『となり町戦争』。

ふーむ。まだ読んでないのでなんとも言えないけど、設定に現代的なリアリティがあるということで話題になっているということはわかりますね。情報として伝えられる「事件」は、当事者でない人たちには経験的に感じることができない。しかし何かが起こっているらしい、そしてその出来事は自分たちとも何らかの形で関わっているらしいということと、どう向かい合えばいいのか。情報伝達の問題には、そういった困難がつねにつきまとっているように思われます。
経験的な事象からは導き出せない「事実」がメディアを通じて伝えられ、受け手はそれらの情報を判断の条件として各自の判断を形成しなければならない、という構造。これは「経験の条件」を問うという意味での、超越論性の問題に近接しているんじゃないかと思いますけどどうなんでしょう。特に情報化社会では、人々は外在的な出来事に対して絶えず超越論的な態度を強いられながら生きざるを得ない(啓蒙された観点から言えばですが)。「超越論的」というタームは、こういった情報論的な視野において考えてみると、非常な重要性が出てくるように思えます。

純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー)

純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー)