スピヴァク『グラマトロジーについて:英訳版序文』

デリダ論 (平凡社ライブラリー)

デリダ論 (平凡社ライブラリー)

デリダは何を遺したのか。その発言は、ある一時期の時代精神や、彼の死と共に忘れ去られるべきものだったのか。わたしはデリダに詳しい者では全くないけど、デリダはそのような意味で「何かが終わる」という言説自体に抵抗していたのだろうと思う(でも「そのつど全てが終わる」ということも言ってたような……終末論についての文章があったと思うけど未読)。スピヴァクのこのデリダ論は時代的に鑑みて、また現在読んでみても優れた解説なのではないかと思うけど、デリダをある種のラディカルな相対主義者として読みうる可能性が出てきてしまいそうな叙述があった点には、多少気がかりな感もあったかも。
デリダの「固有性」に対する戦略は、そこで「デリダ」という固有名がすでに予め痕跡であったことを伝えているし、また受け取る者としての「個人」という単位自体も問いに付すだろうと思う。だが、その上で何かをそこから受け継ぐということはどういうことなのだろうか。「脱構築」とは、仮にでも手法化して継承されることなどが可能な何かなのか。
そもそも、それは確率的に受け継いだり受け継げなかったりするような問題なのだろうか。おそらく、そうではないだろう。たとえば、わたしが最近読んだデリダの本は『友愛のポリティックス』だったが、そこでは「民主主義」の理念こそが脱構築されなければならないものとしてとらえられていたのだと思う。そこで問いに付されていたもののひとつは、民主主義にとって重要な問題である「数」の問題、つまり計量可能性と計量不可能なものとの問題だった。ここには、確率的な戦略というのは無垢のまま入る余地があるのだろうか……とちょっと疑問に思わざるをえない。
わたしにとってそこで語られていた大事なことというのは、「民主主義」というアイデアこそを、その来るべき性格に接続することによって「新しく」(難しい言い方だけど)していかなければならない―というものとしての「脱構築」だったのでは、という気がしているのだけど……。
ともあれ、よくわからないなりに、わたしはいまだ考えることを強いられている。こう思うとき、たしかに、「デリダの死」というものもまた一つではなく、常に複数で語られるべきものとしてわたしの思考へ憑依しつづけ、わたしの知らないところで来るべき思索の掘削をし続けているのかもしれないと思わされる。デリダと呼ばれた誰かからの遠い声は、今でも幽かに響いているはずだ、おそらく。
友愛のポリティックス I

友愛のポリティックス I

友愛のポリティックス II

友愛のポリティックス II

ハイデッガーとデリダ―時間と脱構築についての考察 (叢書・ウニベルシタス)

ハイデッガーとデリダ―時間と脱構築についての考察 (叢書・ウニベルシタス)

↑これは現在読書中。