唐招提寺展@東京国立博物館

上野の東博にて3月6日まで。招待券もらったので見てみる。平日の午前中なのに、そしてまだ閉展までは一ヶ月あるというのにけっこうな人出。高齢者が多いけど、たまに若者もチラホラ。
唐招提寺の改修工事にともなう展示なので、点数はきわめて少ない。でもまあ、美術館とか博物館で大量のブツを見せられると、展示品の良し悪しにかかわらず量で疲れてしまうわたしのような人にはちょうどいいかも(タダで見れたしね♪)。
最初入ったところにある額の文字(素人目にもいい字)と、廬舎那仏+それをとりまく四天王と梵天帝釈天、それに鑑真和上坐像を見るだけでもけっこう面白かったです。あとは瓦や唐招提寺の構造模型とか。東山魁夷画の襖もあったけど、これはこれで別の物かな(それまでの展示がかもし出していた、「唐からの異文化感」のようなものは薄れる)。
ヴェンダースの撮った鑑真像の写真があったのはちょっと意外(笑)。唐招提寺律令国家成立時に建造されて力を持ったことが、展示されていた年表から推測できる。
しかしそういえば、みうらじゅんが『見仏記』で、寺の仏像を見るのは「ロックのライブに行くようなもの」と言っていましたが(「アイドルのコンサート」だっけ?)、わたしにとっては仏像見るのって、『ドラゴンボール』とか『キン肉マン』とか、まあなんでもいいけどあの辺のジャンプ作品を読んでるような感じなんですよねー。
教典も日本美術の鑑賞作法も知らないわたしには、仏像のポーズって妙に見栄きってキマってたりして、例えば悟空なんかのキャラが技をくりだしているポーズを思い起こさせてしょうがないし、廬舎那仏が四天王を従えているところなんかも、7人の悪魔超人のうえに悪魔将軍がいるとか、フリーザの下にギニュー特戦隊がとかそういう連想に走ってしまう要素に満ちているのですよ(仏教徒のひとすいません)。
まあそういうわけで、仏像配置の階層秩序って、基本的な感性においてはそういうジャンプ系のキャラクターのヒエラルキーにかなり近いものがあるように感じるんですが……そう思うのってわたしだけか? 仏像の配置ってそれ自体宗教の持つ物語の表現になっていなければならないわけだし、仏像たち(特に四天王)のポーズも、神話(仏説か)のドラマを体現してるわけだから妙にキャラクター化されてますしね。
仏ごとに身につけるツールも仏教イコノロジー的に決まってますから、仏師たちはそれらのアイテムをどうやってキメキメに持たせるかに熱を入れて作ってたんじゃないのかなあ。「この剣をこうかっこよく持たせるぞ」とか、「衣服はこういうふうに下からエロめにはためかせる」とか、特定のポーズをとらせることに萌え萌えだったんじゃないか〜? こういうこと言い出すと、フィギュアが〜とかの文化論になってくる気配もするので、ここら辺でやめときますけど*1
ともあれまあ、わたしにとって仏像とはマンガである、と。すでにそういうものをフィルターにしてしか見れないだけなんだろうけど、そう見る方が楽しいんだも〜ん。

見仏記 (角川文庫)

見仏記 (角川文庫)

*1:鑑真像は肖像彫刻ということでかなり趣が違ってました。