サミュエル・ベケット

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

わたしの2005年は、ベケットからはじまったといっても過言ではない。
どちらかというと作家一人の作品をハマって全部読みたいと思うことはそれほどないのだけれど、正月休み中にはじめて読んで正直
ベケットキタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!!!
と思いましたね……。
ベケットといえば、あの異様な痩躯で猛禽類を思わせる相貌と、「不条理演劇」という言葉しかそれまでわたしは知りませんでした。舞台で「ゴドーを待ちながら」を見たわけでも当然ながらなく、昔NHK柄本明が「ゴドー」の本場を見にアイルランドへ行った番組を見たことと、そしてドゥルーズベケット論『消尽したもの』における、「知覚しえぬものを知覚すること」というテーマを記憶していたくらいだったのです。
しかし今回実際にベケット作品に接してみると、それらのどれから受けた印象とも微妙に異なった(と思える)ものが、わたしのなかで現像されてゆく気がしました。まだ数冊しか読んでいないのですが、その感覚をそのうち書いてみたい、書かなければならないなと思っていたのです。
ベケット作品の主人公たちは、まさに無為そのものを生きているように思われます。わたしにとっては、それは子どもの頃感じたような、ただひたすらに時が過ぎてゆく感覚を、ある激しさをもって思い出させるものでした。部屋の中に閉じこもって、絨毯の渦巻く模様を指でなぞり続ける、あのただ浪費のような生の感じ。時間がどこかなまなましい具体的なものとして肌で感じられていたあの頃。それは老いの感覚ともまた違った、奇妙で濃密な時間だったと思います。ベケットの作品はそういう、「待機の時」のはらむ熱のような、ある重力のようなものを持っている。それらが絶妙のユーモアと、エンサイクロペディックな博識に潜ませられながら、わたしにひしひしと迫ってきたのです。
子どもの頃わたしは、そのような無為の状態から出ていきたくて仕方がなかった。もっとやるべきことが、わたしにはあるような気がしていた。けど、何をしていいか全くわからなかった。しかしその状態は、けっして否定してはならないものではないと思います(ひきこもりの人にもぜひベケットを読んで欲しい)。あの時間は、何かが自分の中で孵るためには必要なものだったのではないか*1。あの滞留の経験は、何故人は単に生きていることを肯定できないのだろう、何かをしたことをどうしてそんなにも誇ってしまうのだろうという疑問となって、今でもわたしにずっと取り憑き続けているような気がしてならないのです*2
今でもそのような無為の時間の残滓は、熾り火のようにわたしの胸のなかでは熱を発し続けている。それ以上退却するところなどない、無為の状態。そこから翻ってみると実は、もはや世界と生を「肯定」してゆくことしか、やる「べき」ことなどないのではないでしょうか。
うまく言えているかわかりませんが、いっけんそう見える「不条理」という看板とは異なり、ベケットの作品は現実に対するものすごい強靱さを持っているように、わたしには思えてならないのです。ぜひご一読あれ。
マーフィ (ハヤカワ文庫NV)

マーフィ (ハヤカワ文庫NV)

マロウンは死ぬ

マロウンは死ぬ

“単なる生”の哲学―生の思想のゆくえ (問いの再生)

“単なる生”の哲学―生の思想のゆくえ (問いの再生)

*1:これは今だから言えることかもしれない。しかし、言葉とは一つの場所を占めるだけではそもそもつむがれる必要がないものなのかもしれないとも思う。

*2:宇野邦一さんの新著『〈単なる生〉の哲学』はその意味でとても気になりますが、書店でパラパラめくってみたところベケット論はないようですね。もちろん影を落としていることは間違いなさそうですが。