ハウルの動く城

隊長! 今さらながら宮崎駿監督『ハウルの動く城』をみてきました!
ということで久しぶりにアニメーションを劇場でみる。今年は『ネオ・ファンタジア』とか『ベルヴィル・ランデヴー』とか『岸辺のふたり』とかカレル・ゼマン(もう終わったっけ)とか他にもいろいろ興味深いアニメーション映画がやってますねえ。わたしもしばらく忙しくなりそうでなかなかみれないかもしれないんだけど、なるべく見逃したくはないところです。
ハウル』に関しての詳しい説明は不要でしょう。話の筋などについては以下のページなどをご参照ください。
http://www.howl-movie.com/
http://www.walkerplus.com/movie/special/howl/
感想。今回わたしが気になったのは、最早宮崎駿は世界観の説明を放棄している感があったところでした。他の作品ではあったように思われる、「この世界はこういう背景を持っている」的な提示がほとんど見られない。
原作のせいかもしれませんが、背景説明を意図的に投げ出しているようにも思えます。『ハウル』は「風の谷」等の徹頭徹尾フィクションとしての世界でもなく、『紅の豚』的な現実を舞台としたフィクションともなっておらず、『千と千尋の神隠し』にあるような現実―神々の地―現実への帰還、といった往還構造ももっていない。このことは、『ハウル』の舞台としての「動く城」にも特徴的に反復されている気がします。この建てもの(?)は、一つのドアが四つの場所への出入口として切り替えられるようになっていて、複数の地域にまたがる城として描かれている。それゆえ、それは「現実」めいた世界にも「空想」めいた世界にも通じている。このことは、この作品の文字通りの「ユートピア」感ともつながっているような。
また、ソフィーの年齢も場所や精神状態に応じてその都度変えて描かれ一定しないことも、その不定感を一層助長している。このことはソフィーの自己発見の物語と通じているのですが。これは、観客にも物語にこだわらず、その都度場面に応じた年齢で映画を見てほしいということなのかもしれませんし、人間に一定した年齢などはないというメッセージなのかもしれません。
根を張った生活をするけなげで意志がある少女萌えという宮崎アニメの特徴は変わらず、『天空の城ラピュタ』の続編に『紅の豚』をプラスしてみているような感じもした。マンガ版『ナウシカ』の結末(清濁すべてを引き受けた上で生命の存在自体を肯定してゆくこと)から「生活世界」や「ザラザラした地面」的モチーフを宮崎駿は導きだしている気もするので、生活に向かってゆく少年少女を描くことはある意味意図的にやってるのかなとすら思えますが(それは深読みで単に少女好きなのだとか言われると返す言葉もないですが)。なぜ少女なのかとかいう点も含めて、そのあたりについては特に社会学民俗学フェミニズム的な見地から指摘する論も様々あったりするのでしょう(読んでないものの)。
しかしこれ以上なくベタな(かつ故意的な)あのハッピーエンドはどうなのか。原作に関わりなく宮崎アニメとして見た場合、ここには他の作品にみられるような「解決せずに続いてゆく世界」というものがなく、一見伝統的な「物語」的結末に落ち着いているように思われる。ですがこれは、自らの意志によって再結集した「家族」によって「動く城」が延々と動いてゆくというモチーフを示していることは明白でしょう。
この「暮らし」、「生活」なるものが、物語の解決でありながらも生きている以上永遠に解決しないものとして、宮崎アニメのバニシング・ポイントになっている点は他の作品と通底しているようにも思われます。
……でも個人的に、わたしは宮崎アニメってCG使わない方がいいと思うんですけどどうなんでしょう。なんていうか、滑らかな動きってあの絵柄でやると似合わなくなりません? 宮崎駿の絵って、どちらかというと受け手が想像的に動きを付加したくなるような線のブレやほつれを持っていて、その受け手側からの付加感(萌えの原因?)が心地よさである気もするんですよね。
例えば「動く城」なんかも、デザインとして見ると「これがどうやって動くシーンを作るのだろう」という想像力をかきたてられるものの、なんか妙に滑らかに処理された足の運びとか見るとかえって冷めてしまう感がなくもないんですよね〜わたしの場合。『もののけ姫』あたりからそうでしたが。あとソフィーの涙もクラゲが目から出てきたのかと思ったよ。あ、でも宮崎アニメで描かれる雲ってめちゃくちゃうまいですよねー。
映画内の戦争批判のアレゴリーは一見平坦だけど、あれってハウルは要するにゲリラ活動してるんですよね? 評判どおりキムタクの声は意外とハマってましたよ。いっしょに行った人は、「ハウルはダメ男だ」と切り捨ててたけど……。