身体なき器官

身体なき器官

身体なき器官

去年読んだ本。
じつのところ、ジジェクはそれほど読んでいない。でも、だからかもしれないけど、よく指摘される「ああ、いつもの現実界ばなしね」的なものは、この本の場合わたしは特に気にならなかった。むしろ前半部のドゥルーズ読解は、特に『意味の論理学』に対峙したものとしては意外にちゃんとしているんじゃないでしょうか? 「反―実現」などの規定についても説明がなされているし。他に『意味の論理学』をちゃんと取りあげた本をわたしが知らないからなのかもしれないけど*1
問題としては「出来事」を対象aと同一視することができるかということが争点となりそうな気がするんですが、どうなんですかねー、違う気がするんですけど。あと「ドゥルーズガタリと組みさえしなければよかったのだ〜」的語りも、ジジェク自身そういう突っ込みは承知の上での「おかま掘り」なんでしょうが、やっぱり大きな疑問。っていうかむしろ「出来事」が遂行的に「対象a」的なマジカル・タームへと還元されてしまうことに危機感を持って、ドゥルーズガタリという臨床的パートナーを見つけたと考える方がいまだ意義が大きい気がしますけど*2。そこはラカンの肩を持つジジェクの態度の問題ということなんでしょうか。
思想関係に関しては断続的に考えていきたいかなと思ってますので、未熟ですがどうか見守ってやっていただけると。今日はここまでで。

*1:追記。この本がありました。存在と差異―ドゥルーズの超越論的経験論

*2:追追記。『アンチ・オイディプス』のガタリ分の草稿が出版されましたね("Ecrits pour l'Anti-OEdipe")。ドゥルーズガタリが「研究」される時代になったということでしょうか。