痕跡展

初詣に行った後、今日は竹橋の国立近代美術館でやっている「痕跡」展に行く。そう、昨日の日記を読んでくださった方にはおわかりなんですが、ようするにもらったタダ券を即活用したわけです。電車賃もなるたけケチって歩く歩く。お金がないときの街の楽しみ方は、こういうのに限ります。
東京国立近代美術館 http://www.momat.go.jp/
展覧会の正式なタイトルは「痕跡―戦後美術における身体と思考」。先に関西でやってました。フォンタナ、ポロックのカンバスに穴をあける行為が示された作品からはじまり、「表面」「行為」「時間」「破壊」といったテーマごとに分けられた8セクションの会場に、だいたい日本の作家7割海外3割くらいの感じで展示。
とにかく集められた作家の数が豊富。展示側のコンセプトである「痕跡」という考えがかなり強力に出ていて統一感があり、作品一つ一つというよりは全体が「痕跡」という発想を読み取ることに収束していくようにも感じられた。作品の脇に付された詳細な説明文のこともあって、美術批評や美術史的な関心を無視してたどることがけっこう困難な展覧会になっているのではないかなーとは少し思いました。勉強になることは間違いないですが。
個人的にはラウシェンバーグ高松次郎の作品は古びてない感じがして面白かったですね。トゥオンブリもいいんじゃないでしょうか。あとギュウちゃん(篠原有司男)もそれまで別に関心なかったけど「ボクシング・ペインティング」はおもしろかったよーこれ以上なく直接的で(笑
いや笑いはおいておくとしても、他の作品にはない「速度感」のようなものが留められているような感じがしたんでそれはいいんじゃないかなと。「痕跡」が問題になると、一つの方向としてどうしても行為者というか、カンバスにかつて向かい合っていた制作者の行為というものが反省的に問題とされると思うんですね。つまりカンバスの上に置かれているドリッピングは単なるシミにすぎないが、それが垂らされているという事実が「いかにしてなぜそこにシミがついたか」というような推察を経て、制作プロセスの方を提示するという問題になってゆく。例えばポロックの絵が示している、ドリッピングされたカンバス上に人体の形が空白に切り取られ、そこにほんの少しだけ絵具が垂らされているという描かれ方からは、わたしにはそのように受け取られます。ただその形をインデックスとしてとらえた際、それは制作する主体性への指示を行うものなのかどうかが基本的な問題としてあって、実際には単なる人型を連想させる切り込みがあるだけだとも当然ながら考えられる(っていうかあれを人型としてとらえるかどうかがまず問題となるでしょう)。そういう無軌道性を抑圧するひとつの方向として、連想を人間身体の方へと向かわせようとする動きがあると思います。そうするとカンバスや作品が妙に有機的になったり、制作者としての芸術家の存在が結局大きくなったりするんじゃないかなと。
そこからすると「痕跡」といっても、全体に結局人間身体の方へ行っちゃう作家が多い感じがしましたね。そういう作品は結構作品が妙にスキャンダラスというか馴れ馴れしい感じになって気持ち悪かったりもするんですが、ボクシングのギュウちゃんは速度があってそこの点だけはちょっと切れてる感じがしたんでよかったかなと。結局作家へ折り返されるんですが(w 他のオレ流orグロ有機系作家にないディメンションはあるかなと。あと中西夏之の作品で撒かれていた砂鉄は、そこらへんの切断感が出てる気が個人的にはしました。
あとはそのカンバスで起こったことを「事件」としてとらえる向きもあり。ハロルド・ローゼンバーグはこう言っているようです。展覧会のページより引用。

画家たちにとってカンヴァスが実際の、あるいは想像上の対象を再生し、再現し、分析し、あるいは表現する空間であるより、むしろ行為する場としての闘技場に見え始めた。カンヴァスの上に起こるべきものは絵画ではなく事件であった。

アクション・ペインティングに関しては、まあそうなんでしょうねー。でもそれは痕跡というかむしろ一種の「記録」として考えられるべきもののようにも思われました。この二つは密接なつながりがあるけど、決定的な違いもあるでしょう。だから「時間」のセクションとかではそういう契機がポジティヴ(実定的)にあらわになった作品があるんじゃないかと期待したんですが、あんまりそこらへんの齟齬を問題にしている感じの作品はなかったかなーなんて素人的には思いました。この「時間」とあと「転写」のコーナーがもっと充実していたら、より問題の裾野が広がるような気もわたしにはしました(この「はてなダイアリー」をつけることとかも、拡張すれば「記録」とか「痕跡」といった問題圏に入ってきそうかな?)。「物質」のコーナーももうちょっと異質な作品があるとより面白い感じかな…。
しかしともかく、カンバスの上で起こっていることが作品ではなくて出来事だということ、そしてそれはカンバスでもなんでもその基体自体を損傷させるものとなることというのが60年代周辺の作家たちにこんなにも共有された意識としてあったという形での展示には驚きました。「たしかにこれも痕跡、あれも痕跡」とみること自体がおそらく美術史的体験なんだろうなーと思いながら、このような展覧会が行われることの面白さと意義とそれがはらむ問題の方に関心が行ってしまうことを禁じ得ない日曜だったのでした。
展覧会の評価としては、その豊富な可能性から言って、行って損なしは間違いなし(え、もともと払ってないじゃないかって?)。かなーり充実した一日になることはうけあいです。