カフェ・ド・鬼

どうでもいいが気になって仕方がないので書いておくと、なぜ「渡る世間は鬼ばかり」の登場人物たちはあんなにも雄弁且つ些かも余すところなく自己の心理を明白に説明することが可能なのであろうか。尋常ではないと思う。そこに「余白感」といったものを見いだす隙はほとんど存在しておらず、台詞によって「幸楽」をめぐる人々の関係性は明からさますぎるほどに明からさまにされ、役者の表情は凋密に並べられた台詞を明確化するに過ぎない役割を与えられる。泉ピン子えなりかずきもその能弁さというか、クドさをクドさとしてそのまま表現する特殊能力によってドラマ内における盤石の地位を築いたようですらある。なぜ視聴者はあのような異様な台詞まわしを自然なものとして受容することができるのか。またなぜ橋田壽賀子は南極に行ったのか。やはりそれは台詞のあの空間恐怖症的な性質の反動なのか。世界には謎が多すぎる。