『ユリイカ』多和田葉子特集号メモ

去年12月29日のところでちょっと触れた『ユリイカ 総特集多和田葉子』2004年12月臨時増刊号ですが、ちょっと事情があって人にあげることにケテーイ。あげる前に、野崎歓さん・管啓次郎さんとの鼎談である「饗宴 言葉を愉しむ悪魔」が掲載されているんで、その中で気になった多和田さんの言葉をメモしておきます。よって今日の日記はわたし向けの備忘録です。

外国語をやっていると、言葉の持つアナーキーな力みたいなものが特に強く感じられるような気がします。つまり、一つの単語がはっきり何かをさししめそうとしているんだけれども、同時に、さししめしているイメージやそこにまとわりついた思い込みとか因襲みたいなものを揺すぶって、壊してしまう力も言葉にはある。それは、まず初めに正しいことがあって、後で退屈だからそれを壊していくということではなくて、壊す力が言葉の中に初めから含まれているんだと思う。

文法というのはそもそも、言葉の法則性を解釈しようという試みに過ぎなくて、便利だけれど、不完全で、間違っている。みんな文法の方が間違っているとは言わないで、これは例外だ、とか、それは言葉の乱れだ、と言って無理に納得してしまっている部分も多いけれど。言葉が文法に合わせて生まれてくるわけじゃない。言葉自体の運動の法則は、人間には説明できないくらい複雑だし、いつも変化し続けている。だから、いわゆる「正しい」言葉というのは当然、今、あるコンテキストの中で、ある程度「正しい」というだけのこと。今ほとんどの人が正しいと思っている言い方を、わたしが個人的にすでに正しくないと感じることもあるわけです。それでかっこよく別の言い方をすぐに提案するのならよいけれど、そうではなくて、違和感がつまづきになって、変な言い方をしてしまって、社会的に差別されることもあるわけです。そういうつまづきの場に敢て踏み止まって、先を考える必要がある。どうしてそう感じるのか、これからどちらへ動いていったらいいのか、と。

言語には、成り立とうとしているけれども、同時に壊れようとしている力が含まれていて、だからこそ生きている言葉に敏感な人なら誰でも、頻繁に、ずれた言い方をしたいという欲望を感じるはずです。壊れることそのものに興味を持ちながらも、まじめに語学の勉強を続けるというこの二重苦に耐えながら勉強してください、そう簡単に「できる学生」や「できない学生」になっちゃわないでください、と学生さんたちには伝えていただきたいんですけど。

「つまづきの場で敢て踏み止ま」ること。違和感をやりすごさないこと、あきらめもせず、かといって急ぎすぎず。こういう「つまづきの場」で耐えしのぐっていうのは、一見何も行ってないかのように傍目には見えることも多いんでしょうが(あるいは逆に、「待つ」ということが単なる何もしていない状態を指すだけではないのと同様で)、そのじつ何かの備えになっていることがあるということは、楽観的にすぎるかもしれませんが、信じたいものです。しかもそこからつくりだされてゆくものというのは、多和田さんの言葉を使えば「悪霊」的で、人を見たことも聞いたこともないところへと連れて行ってしまうようなものにならざるをえない、のかも。
なんだか元気が出てきたよ。語学でも他のなんでも、そう簡単に「できる学生」や「できない学生」的なものにはならないぞーと決めました。
旅をする裸の眼