米本昌平『バイオポリティクス』より

「2 科学革命としてのヒトゲノム解読」から。

 [ユネスコの]ヒトゲノム宣言の第一条は、[……]「象徴的な意味において、ヒトゲノムは人類の共通遺産である」という文章が続いている。ヒトゲノムを「人類の共通遺産」とする考え方は、一九九四年九月にIBCに提出された最初の要綱以来、この宣言を象徴する一節として、常に宣言の冒頭に置かれてきた。法務委員会に出されたある意見書が、ユネスコという国際機関から見たヒトゲノムの特徴をこう整理している。

 ヒトゲノムは、自然科学的には個々人のユニークさを構成する要素であり、かつ遺産として伝達しうるものである。この意味では民法の管轄に入る。他方、ヒトゲノムは、個人の遺伝的アイデンティティを越え、人間全体の遺伝子プールの一部を成すものとして人類の共通遺産でもあるから国際法のもとにも入る。人類の共通遺産という概念は、一九六六年の「国際文化協力の原理の宣言」第一条三項で、世界の文化の多様性を指すものとして用いられている。

 国際法上の「人類の共通遺産」という考え方は、一九六五年の南極条約に出発点があるとされる。この条約機構は、六大陸の一つである南極大陸を各国がその領有権主張を棚上げし、平和利用、非軍事化、自由な科学研究を保証する目的で、南緯六〇度以南の全域を科学委員会の管轄下に置いた画期的な体制である。科学委員会が巨大自然を管理する国際機構は、地球環境問題のモデルになりうるものである。
 この南極条約前文にある「全人類の利益」という表現が、その後、一九六七年の宇宙条約(月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約)、七〇年の深海底を律する原則宣言(国家の管轄権の範囲をこえた海底及びその地下を律する原則宣言)、および七九年の月協定(月その他の天体における国家活動を律する協定)へと継承されてきた。こうして、月、宇宙空間、深海底資源は、国際法上は人類の共通遺産とする共通認識が確立したのである。
 一見、ヒトゲノムもこれらと同類のものとして扱っても不都合はないように見える。だが、これら国際法上の人類の共通遺産とされるものは、それまでは物理的に人類の手が及ばなかった自然が、科学技術の発達によって到達可能になるか、到達可能になりそうになった時点で、一部の先進国だけがその自然を独占することに他の国々が疑義をとなえ、その結果として人類の共通遺産とみなされるようになった対象である。ところがヒトゲノムの場合は、たしかに近年まで人類はその全体には到達不可能ではあったが、いったんヒトゲノムが解読され、これへのアクセスの方法を知ってしまえば、誰もが接近可能な自然である。しかも個々人が、それぞれに保有するものである。国際法が人類の共通遺産と考えてきたものとは、かなり様相が違う。宣言の草案における「人類の共通遺産」が、ユネスコ総会直前の政府専門家委員会で、急遽「象徴的な意味で人類の共通遺産」という表現に変更されたのはそのためである。適切な字句の変更であった。