保坂和志『カンバセイション・ピース』より

カンバセイション・ピース (新潮文庫)

カンバセイション・ピース (新潮文庫)

p.422-423

 ポッコもジョジョもミケも私たちにとってだけ特別な猫で、私たちを離れてもなお際立った何かを感じさせる猫ではないはずだから、猫一般の特性の中でポッコたちは生きていて、それだからポッコたちのすべての動作や表情や鳴き声には猫一般ということがいつも反映しているのだが、その猫一般という抽象は一匹一匹の具体的な猫にしか顕れようがない。
 だから具体的であることは同時に抽象的だということでもあって、具体的というのはただの物理的な次元では収まりきらないこととして、抽象的であることと同じ次元での観点の違いにすぎないのではないか。というか、だから抽象はつねにいつも確固として人の頭の中にあるのではなくて、具体的なものがなければ抽象もなく、具体的なものが具体的なものとして物理的な次元をこえて人の気持ちをとらえることができるのは抽象が立ち上がっているからで、そのとき猫のポッコたちも「よく眠ってる」という声も言い尽くしがたい厚みを持つ……。それゆえ、いま綾子が実際に「よく眠ってる」と声に出して言ってなかったのだとしても言ったのと同じことになるのだけれど(きっと)、チャーちゃんの不在を救うにはまだ至っていなかった。
 チャーちゃんが死んだとき私は生まれかわりを確信して、しかしその確信がいまではだいぶ遠くなってしまったことは確かだけれど、生まれかわりというのは同じ外見をした個体や同じ内面を持った個体がもう一度この世界にあらわれるというような、単純で物理的に証明できるようなことではないのではないかと私は思うようになっていた。
 いなくなった神をただいないものとするのでなく空欄として残しつづけるように、生まれかわり自体はないのだとしても生まれかわりという概念が人間の歴史の中で長い時間持っていたそのリアリティは人間と世界との関係の中に起源があるはずなのだから、関係それ自体がなくなっているわけではなくて、それに別の言葉をつけるのでなく空欄として残しつづけるということなのだが、具体性は物質をこえたものであっても物質を必要としないものではない。テルトゥリアヌスのあの「神の子が死んだということはありえないがゆえに疑いない事実であり、葬られた後に復活したということは信じられないことであるがゆえに確実である」という言葉にしても、私には物質とまったく無縁のこととは思えない。