保坂和志『小説の自由』より

小説の自由

小説の自由

「13 散文性の極地」から。

 小説は、−−小説という概念が生まれる以前の小説の起源としての散文であるところの−−アウグスティヌスの書き方に顕著にあらわれているように、その小説の中で特異な思考の組み立ての手順が実現されることであって、それによって、その小説が書かれる前には読者が考えていなかった問いやこの世界に対する不可解さが浮かび上がってくる。それらは小説を通じて実現されるのであって、小説の外から持ち込んでくるのではない。
 ある小説が、その小説が書かれる前から社会の中でじゅうぶんに認知されている問題を、社会と同じ視点から書いても、問題の質的転換は起こらず、すでに問題とされている問題が強化されたり、固定されたりするだけだ。
 かれこれ十年前になるだろうか、アフリカで飢えて道にすわっている子どもとそのうしろで子どもが死ぬのを待っているハゲタカの写真を撮ってピュリッツアー賞を受賞したあとに、「写真を撮るよりなぜ助けようとしなかった」という非難を浴びて自殺に追い込まれたカメラマンがいたけれど、社会ですでにじゅうぶん問題とされている問題を、社会の視点と同じフレームで小説に書くことはあのカメラマンがやったことと同じなのではないか。
 小説が外から持ち込むのは、意味や問いではなくて、風景や音や人物の口調や動作の方だ。私がこの連載で繰り返してきた"現前性"ということで、アウグスティヌスの場合には思考を組み立てる手順が読むプロセスにおける現前性となって、聖書の「創世記」の最初の七日間を形而上学的に根拠づけていくという特異な展開を生じさせる。