ジル・ドゥルーズ『狂人の二つの体制 1975-1982』より

狂人の二つの体制 1975-1982

狂人の二つの体制 1975-1982

ネグリを裁く判事たちへの公開状」(1979年5月10日)、杉村昌昭訳から。

 われわれは、ネグリ事件においては、ジャーナリズムが、少数の例外を除いて、これまで大きな役割を演じてきたし、なお演じ続けていると考えています。ことがこれほど体系的かつ組織化された仕方ですすんでいるのは、おそらくいまだかつてなかったことでしょう(フランスのジャーナリズムも、イタリアに劣らず意図的かつ歪曲的といえるでしょう)。もしもジャーナリズムが、規則に対する違反や規則の放棄を忘却させるような手段を提供しなかったなら、司法はその本来の原則を決して放棄しえなかったでしょうし、また捜査もその除外の原理を放棄しえなかったでしょう。
 ジャーナリズムの側に目を向けると、実際のところ、ジャーナリズムは、ある特殊な別の原理に従属しています。つまり、日刊紙にしろ週刊誌にしろ、あるいは活字メディアにしろ、ラジオ・テレビなどの電波メディアにしろ、ジャーナリズムは一種の蓄積の原理で動いているのです。毎日、新しい《ニュース》があり、また前日のニュースの否定はその日のニュースや翌日のニュースに何ら影響を与えることもないので、ジャーナリズムは、その日その日のニュースを、それらがかりに矛盾していても矛盾をいっさい恐れることなく、ただすべてを蓄積していけばよいからです。《条件法》の使用によって、すべてを集合し、すべてを増殖させることが可能になります。 
 ネグリが、同じ日に、ローマ、パリ、ミラノにいたことにすることもできるのです。ここでは、三つの事項が積み重なっています。また、ネグリを赤い旅団の行動的メンバーにすると同時に、裏のボスにしたり、あるいは逆に、何かまったく別の作戦や方法の実行者にすることもできます。ここでも、三つの事項が積み重なっています。
 マルセル・パドヴァーニがあるフランスの週刊誌でやっているのはこのやり方にほかなりません。つまり、かりにネグリが赤い旅団のメンバーでなくても、彼は《アウトノミア》であり、「われわれはイタリアのアウトノミアの何たるかを知っている」というわけです。かくして、どっちにころんでも、いまネグリの身に起きていることは、彼が自ら招いた禍だということになるのです。ジャーナリズムはとてつもない《偽情報の蓄積》に邁進していて、そのために司法や警察が自らの一件書類の空隙を隠蔽することが可能になっているのです。われわれにはヨーロッパ共通の司法・警察空間が約束されているのですが、それはヨーロッパ共通のジャーナリズム空間をもってしか機能することができないのであり、そのジャーナリズム空間のなかにおいて、右から左までのあらゆるメディアが捜査の破綻や法の破産に加担しているということです。
[……]
 いま、われわれは、あいまいきわまりないうえに、つねに先送りされる証拠にもとづいて投獄されている人々に対する《執拗な追及》を目のあたりにしています。確かな証拠が示されるなどということを、われわれはまったく信じていません。しかし、われわれは少なくとも、彼らがどんな条件のもとに拘留されているのか、またどんな孤立した状態におかれているのかということについて情報を得たいと思っています。このままでは、ネグリがピネリであったという《決定的な》証拠についてジャーナリズムが語り始めるというような、とんでもない事態が生じかねません。