マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』より

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

先行する-問いを「形而上学的に」問うことは徹頭徹尾歴史的なことであるというわれわれの主張を理解するためには、その場合、歴史[ゲシヒテ]はわれわれにとって決して過去のものと同義ではないのだということをまず考えねばならない。というのは、過去のものとは確かに、最早生起[ゲシェーエン]していないものだからである。けれどもまた、それにもまして歴史は単なる今日のものでもない。今日のものもやはり生起しているのではなく、いつもただ「去来し」、登場しては過ぎ去るだけだからである。出来事[ゲシェーエン]としての歴史[ゲシヒテ]とは、将来から規定を受け、かつて本質的にあったものを引き受けつつ、現在をとおして絶えずはたらきかけたりかけられたりすることである。現在とはまさにこの出来事の中で消滅するものにほかならない。
 われわれが形而上学の根本の問いを問うことが歴史的なことであるのは、そのことが、人間的現存在の出来事をそれの本質的な諸関連、すなわち全体としての存在者そのものへの諸連関の中に保ちながら、いまだ問われていない諸可能性、すなわち将-来に向かってその出来事を開示し、そのことによって同時にその出来事を、それのかつて本質的にあった元初へと引き戻して結びつけ、そのようにしてそれをそれの現在の中で鋭くし重たくするからである。この問いを問うことにおいて、われわれの現存在は語の十全な意味におけるそれの歴史へと呼び出され、歴史と歴史における決意とに向かって呼びうながされる。しかもそれは、まず初めに歴史というものがあって、しかる後に道徳的-世界観的効用の意味でその歴史へと現存在が呼びうながされるというのではない。そうではなくて、このように問うことの根本的な立場、態度、それがそれ自身において歴史的であり、出来事の中で立ち、支えられており、この出来事から出発して、この出来事のゆえに問うのである。