ジャン・ジュネ『恋する虜』より

恋する虜―パレスチナへの旅

恋する虜―パレスチナへの旅

 始めは白かったページが、いま、上から下まで、こまかな黒い記号となって走り抜けられている。文字、言葉、コンマ、感嘆符などで、このページが読みうるとされるのは、これらのおかげだ。とはいうものの、心の中には一種の不安が残り、吐き気にきわめて近いあのむかつきがあり、書くことをためらわせる気持ちの揺れがある……現実はこの黒い記号の総体なのだろうか? ここにある白い部分は一種の詭計で、羊皮紙の半透明、粘土板のかき傷のある黄土に替わるものだが、浮きあがっているあの黄土も、あの半透明もこの白い部分も、おそらく、これらを変形させる記号以上に強力な現実性を備えているのだ。パレスチナ革命は無の上に書かれたものなのか? 無の上にかけられた詭計なのか? そして白いページは、また二つの言葉のあいだに姿を現わす白い紙のわずかな間隔の一つ一つは、黒い記号よりも現実的なのか? 行間を読みとるだけなら技術は水平的で穏やかだが、言葉の間を読みとるとなると垂直的で険しい。パレスチナ人たちのかたわらで−−彼らとともにではなく−−過ごした時間の現実が、もしもどこかに留まるとするなら、うまくは言えないが、この現実を語り伝えようとする一つ一つの言葉のあいだに保たれ続けるだろう。実際にはこの現実は、紙片のこの白い空間の上に、中をくり抜かれながら、というかむしろ、言葉のあいだにぴったりと把えられながら、身をちぢめ、おのれ自身に合体するまでになっている。言葉のあいだに、であって、この現実が消えていくために書かれた言葉自体の中にではない。あるいは、言い方を変えるとこうなる。言葉のあいだの規則正しい空間には、この言葉自体を読むのに必要な時間にくらべて、現実がより多く詰め込まれている、と。だがおそらくこの空間には、ヘブライ語の各々の文字のあいだで締めつけられた、あの濃密で現実的な空間が詰め込まれているのだ。先にわたしは黒人とはアメリカという白い紙の上の活字である、と指摘したが、これはあまりにも早まったイマージュだった。現実はなかんずく、私が決して正確には知りえないであろう事柄のうちに、色の違う二人のアメリカ人のあいだの恋のドラマが演じられる場所に見いだされるのだから。だとすると、パレスチナ革命は私の手をすり抜けてしまったということだろうか? 完全に。ライラからヨルダン川西岸地区に行くよう勧められたとき、私はそのことを理解したように思う。私は勧めを断った。というのも、占領下の土地とは、占領者と被占領者とによって刻々生きられるドラマそのものだったからだ。彼らの現実とは、日常生活の中での憎悪と愛とがたっぷり重なりあった層であって、それは半透明に、言葉と文によって切り刻まれた沈黙に似ているのである。