蔵書開陳

文化の日」前後からバイトとか何とかで結構忙しかったのだが、昨日はお誘いをいただき、蔵書数で知られている某教授の家へ10人近い人数でうかがった。テレビ番組で取り上げられたほど有名らしく、およそ5万冊(推定)の蔵書が、まさに書物の「蔵」という感じの書庫に収蔵されている。蔵書家で雑然と本を集めている人は多いようだが、この先生のように、図書館かと見まごうほどキレイに整理されている書庫というのは稀らしい。
人の本棚というのは見てるだけで勉強になる。といいながら、実は蔵書家の書棚には何度か触れたことがあるので、本の物量面には免疫がある。多田道太郎宅も蔵書が多いが(雑然派)、家の外塀が全て本棚になっているという驚きのつくりだった。訳あって松岡正剛の編工研に行った時の蔵書も、本が独自の方法で整理(編集)されていた。それにまあ、むかし東洋最大級という図書館でバイトしてたこともあって、やはり個人蔵だけであれを凌ぐのはムリというものだろう、とつい思ってしまう。
結局蔵書というのは、量そのものが問題ではないのであって、そこに現れてくる特徴や質感というのが重要なのではないだろうか(むろん量や貴重書の存在も重要だが)。実際蔵書というのは、「集める」・「配置する」という行為なしには成り立たないからだ。私自身は蔵書家では全くないし、同じ本なら別に単行本でなくても文庫本でいいやと思ってしまうぐらいなので発言する余地はないかもしれないが、おそらく、蔵書も集める人が死ねばまた死ぬ。生き生きした人間が集めているから、蔵書も楽しいものになるのではないか。だが本は別の人の手に渡ることもでき、また別の蔵書として別の生を生きることもできるのだろう(仮に蔵書が生ならば)。…などと、うれしそうに貴重書を開陳されているその先生を見てて空想したりした。
お酒などもいただいて夜遅く辞去した時、外は雨だった。