『ネグリ生政治的自伝』より

アントニオ・ネグリウィトゲンシュタインに対する見解。

 私は、ウィトゲンシュタインは、ハイデガー以上にわれわれをポストモダンに導入する存在だと思います。ポストモダンは、非物質的生産、あらゆる〈生〉の領域に関与する生産によって支配されています。このような世界を読みとるためには、われわれはある意味でウィトゲンシュタインのあとについていかざるを得ません。彼の軌跡を理解しなければなりません。言語を存在の構成の運動として解釈すること、記号として、接合として、構造として解釈すること、これがウィトゲンシュタインの精髄です。しかし、同時に、ウィトゲンシュタインのなかにハイデガー的なものがあることも事実です。というのは、この言語の構造は所与のもので、そこにそのものとしてあり、それ自体、重要な存在論的地平を描くものだからです。これは正真正銘の存在論的創設です。
 したがって、ウィトゲンシュタインの中心部分はここに由来します。言語活動を身体の自然を発見するための根元的な分析事項として捉えたということです。すると、身体は言語的な過程になります。こうしたパースペクティブのなかにおいて、ウィトゲンシュタインは彼の先行者である新カント派よりも重要な存在になります。というのは、新カント派は、象徴的なものを中心的要素としながらも、それを常に形式的な地平に還元してしまうからです。それとは逆に、ウィトゲンシュタインは、存在について、身体について語り、身体がどのように相互に接触し、その情動や企図を伝達するかということについて語ります。

ネグリ 生政治(ビオポリティーク)的自伝―帰還

ネグリ 生政治(ビオポリティーク)的自伝―帰還

言語も身体も、ともに「存在の構成の運動」としての〈新しい世界へのインターフェース〉のようなものとしてとらえている点が興味深かった。