「JOY」と『マクベス』

この前花見に行った時、カラオケでYUKIの「JOY」を歌った。周知の通り、ユキは男の子を先日突然死で亡くしている。この曲はその以前に書かれたもので、「100年先もそばにいたい」という歌詞がある部分には、歌いながら心が痛んだ。何カ月か前に、テレビのインタビューで彼女が「私は今日本で幸せな女性シンガーの10人に入ると思う」と言っていたのも思いだしてしまい、辛いものがあった。ご冥福をお祈りするとともに、ユキとYO-KINGのこれからのご活躍を心から願いたい。

言葉が残されてしまっているということは、後からそれを別の状態の自分が読み直してしまう可能性があるということだ。幸せだった時に書かれた文章を、その後陥ってしまったどん底の精神状態で読み直すときには、つらい感情がつきまとうだろう。逆の場合、つまりつらい状態の時に書かれたことを安定した時に読み直すことは、過去の自分への思いやりのような感情が生じることが多い。

こういった言葉の力について、演劇において表していたのが、シェイクスピアの『マクベス』であるのではないかと思う。
優秀で忠実なマクベスは、ある日三人の魔女に遭遇する。彼女らはマクベスが王になることを予言し、三つの条件、すなわち「女から生まれぬ者でないとお前は殺されない」「森が動かぬ限りお前は殺されない」(あと一つ失念)…が満たされない限り、彼の王位は揺るがないものだと述べる。マクベスは妻とともにその予言を信じ、それを実現するかのようになぞって虐殺を重ねて王位を継ぐが、最後は予言通りの事態が起こり、殺されていく。

マクベスは、予言がなければ王位への野望を持つことなく、平和の内にその一生を終えたのだろうか。……おそらく、このように考えさせられること自体が、シェイクスピアが見事に描き出した、「言葉」の持つ一つの機能なのだろう。「あの言葉はこういう意味だったのか」と、言葉の「より深い」意味は常に後から発見されることになるからだ。「あのとき言っていたのはこういう意味だったのか」……といった風に。言葉は、未来から見ると、必然的につねに予言的になるのだ。

マクベス (新潮文庫)

マクベス (新潮文庫)

しかし、ユキのような場合に関して、そのように語るべきではないだろう。おそらく、彼女が「JOY」でまさに喜びの感情を言葉に表現していたということは、「決して未来の悲しいことなど考えて現在を生きてはならない」ということを歌っていたのだろうから。そしてそれゆえにこそ、その歌に書かれていた愛する者への想いが、今となって切実なものとして、しかも生きていても死んでいても変わらぬ彼への語りかけとして響くのではないだろうか。

日々のよしなしごとを書き綴る日記(このダイアリーを含む)には、こういった自分の未来との関係が見えやすいだろう。わたしはほとんど過去の自分の文章を読み直すことはないし、感情をダイレクトに書いているわけでもないが、やはりその時の自分の状態や感情の動きがそこには記録されている。しかし、そこで日々文章を書くということは、決して未来の自分が過去の自分を懐かしんだり、哀感に浸るために書いているわけではない。そこで書くことはむしろ、その時の感情を十全に解き放ってやることなのであり、その結果として未来があるにすぎないのだ。

それゆえ、書くことはひとつの運命への決別としてなされるべきなのではないか。わたしは未来など知らない。この言葉が真に力を持つときこそ、はじめてわたしたちは現在に生きることができるのではないだろうか。