『速度と政治』から森美術館へ

ポール・ヴィリリオ『速度と政治』再読中。

速度と政治 (平凡社ライブラリー)

速度と政治 (平凡社ライブラリー)

日仏学院ヴィリリオの講演ビデオ上映もあるそうです(通訳なし)。

2005年3月15日(火)19時 @エスパス・イマージュ
会員:無料/一般:500円
「パラン−ヴィリリオ:建築大講演会」
監督:ジル・クーデル
(1996年、124分、カラー、ベータカム、フランス語)
アラン=ジュリアン・ラフェリエールの着想で、現代創作センターとフランソワ・ラブレー大学によってツールで1996年12月11日に開催された建築連続大講演会の一環として制作された映画。アーキテクチャー・プリンシプ(1963 / 1965年)運動の一環であったクロード・パランとポール・ヴィリリオの共同活動は、現代建築の歴史にとって一つの決定的な出来事であった。本質的に戦後の順応主義に批判的なこの「価値転覆をする」建築は、人間の世界との関係の変化を報告することを狙いとしていた。フレデリック・ミゲルーの司会によるこの講演会は、建築と現代世界についてのその理論上の立場が、過去30年間で最も大胆で意義深いものの内に入る二人の建築家の間の、情熱的かつ感動的な意見交換の場となっている。

http://www.ifjtokyo.or.jp/culture/cinema_j.html#MA
実をいうとヴィリリオの言ってることはわたしは今までいまいちピンとこなかったんですが、速度の観点から世界史を見る視点を持ったということよりも、近年東浩紀さんなどが言われる「環境管理型権力」の問題と重ねてみることで、自分としてははじめて焦点が合ってきた気がします。しばしば指摘されるヴィリリオのヤバさやペシミスム等々も、人間の主体的な反省など必要なしに、環境デザインやアーキテクチャの構築によって人々に自由感を持たせたままフローとして管理できるという技術の視点を、軍事・建築方面から彼が多分に持っているからなのかも。
話がちょっと逸れますが、もし近代の課題として「主体化」という問題があったとするなら、現代においてその位置を占めているのは「健康」なんじゃないかと思いますよ最近。社会的に見て主体的に選択を行わないと政治・経済活動の一員に加われなかったのと同じくらいの勢いで、今や「健康」であることが一種の「人間」であることの条件となりかわっているような気すらする(そっちの方が東さんの言葉でいえば「動物化」に近いんでしょうが)。「マイクロダイエット」とかのCMとか流れていると、「私たちこのダイエット食品のおかげで、こんなに社会化されました」と言っているようで、あの貼り付けたような笑顔の裏の不安が見え隠れしてほんと鬱になる。あとTVの健康番組の数も異常でしょ。自己への配慮の大衆化(?)したヴァージョンが、あの健康への配慮となっているのだろうか。健康のためなら死ねるってか?
まあ、「健康のため」というのが結局残された「皆が納得する」だろう社会善の唯一のもので、あとは価値なんて多様化・流動化しまくってるから、「健康」以外には参照点がないんでしょうね。わたしはタバコは吸いませんが、喫煙者が非喫煙者に気を配るようにするべきだという意見は納得できるけど、神経症的にタバコの有害性を「敵」とするのはやりすぎだと思う。こんなところでもカール・シュミットの友敵理論が働いているとはねー。そういう意味で、「健康増進法」は見事なまでに政治的な法律だと思いますよ。

健康という幻想

健康という幻想

話を戻せば、この環境デザインの力が露骨に出ているのが、六本木の森美術館までの森ビルの道のりだと思う。森美術館に行くためにはエレベーターでいきなり60何階かの展望台に連れて行かれるんですが、そこの道のりも全部視線がコントロールされていてビル周囲の余計なところは見させず、見てよい展望台と美術品だけを鑑賞させたあとでお帰りもまたショッピング街へと直行。見ていいものだけ見させられ、文化資本としての「よいもの」ばかり突きつけられながら歩かされる、あの視線と歩行の有無を言わさぬ柔らかなコントロールぶりは心底じんわりとした不快感と徒労感を味わわされる。回転扉の事故だって、偶然じゃなくまさしくビルのコンセプトが生んだ事件でしょ。そういった意味で「アーキラボ展」が森美術館でやるなんてうってつけですねー。ま、皮肉ですけど。
森美術館 http://www.mori.art.museum/html/jp/index.html