バディウ『聖パウロ』、ナンシー『ヘーゲル』

聖パウロ

聖パウロ

ヘーゲル―否定的なものの不安

ヘーゲル―否定的なものの不安

  • 作者: ジャン=リュックナンシー,Jean‐Luc Nancy,大河内泰樹,村田憲郎,西山雄二
  • 出版社/メーカー: 現代企画室
  • 発売日: 2003/04/01
  • メディア: 単行本
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両冊とも今年に入ってから読了。奥付を見ると原著は両方とも1997年の発行だったのは読み終わるまで気づかず。ドゥルーズの死後二年後に書かれたってことですね。どちらも興味深く読みました。わたしは哲学プロパーではないこともありまた今手元に本もないので、あっさりと印象を書いときます。
無論二人のスタイルは全然違うんですが、関心としては、いわゆる特異な出来事がどのように伝播されるかという「伝達されざるものの伝達」という点(デリダで言うと「秘密」に関連する問題か)、あと即自的差異を「普遍」性へと結びつける考え方に関してのなんとなしの共通性に注目して読んでました。それらについてマオイストであるバディウは、「復活」と布教というモチーフにおいてパウロ(/レーニン)の航跡を追っていく。そこではキリストという出来事に忠実であることと、それを語る際の「信」が問題となる。一方のナンシーはヘーゲルがもつ即自的差異の無限性に他者性の契機を読み込むという作業をずっとしてる感じ。それが、「否定的なものの不安」が取り憑き続けるということと関連。そこから「不安」の分有による共同性へという展開。
しかし特にバディウの場合は、数学がわかってないと読みこめない部分もあって勉強しないとなーとも思わされる。あと「カリスマ」を持ちあげてる点とかどうなんだろうか。またナンシーに関してはなぜヘーゲルなのかと思ったけど、ヘーゲル脱構築的作業の最大の対象であるのと同時に、オートポイエーシス系の人たちがよくヘーゲルを持ち出すことと問題意識としては共有しているところがあるのかしらんなどとも思う。よくわかりませんが。熊野純彦ヘーゲル論(未読)とかとは重なる点があるのでしょうか? あと長原豊は独特の言い回しをしますがレトリックを用いることに自覚的ですね当然ながら。松本潤一郎の解説は的確なんじゃないかと思いました。
日本の批評的文脈に近接させて考えると、柄谷行人の強調してた「単独性」や蓮實重彦がしばしば語る映画的な瞬間の還元不可能性に関連して、今回読んだ二人の著作が、そういった出来事性について「述べる」ということはどういうことかについてのひとつの問題提起として考えさせられてしまうのでした。