大掃除(バイト)

今日はバイト先で大掃除でした。
某(大きいとは言えない)出版社でバイトしているので、通常の仕事はひたすら校正してるとかデータ入力してるとかいう感じでキツイということはほぼないのですが、今日はまさに肉体労働でした……。
棚の整理! 余計な段ボール箱は壊してゴミ! 棚を解体! 雑巾がけ! 
ビシャーッ。終った後の忘年会のビールがうまいはずですよ。久し振りにいい具合に酔いました。
まあ、いらない書籍も結構もらってたりしてウハウハでもあったりするんですけど。

しかし、段ボール箱を解体している時に自分のなかの破壊衝動がドライヴしたのか、箱を壊しながら何故か動物や魚を解体している所を連想して恍惚に浸るという、ヤヴァい感触が生まれてきました。
いやー、人として間違っているような気はしますがね。
でも、壊すということは、物のつくりをとらえなおすという意味ではある意味建設的な作業である、ということに改めて気づかされたような気はします。段ボール箱なんて片づける対象でしかなかったのに、いざそれを破るとなると、途端にそれらの対象は「物」としてのふてぶてしい表情を浮かべはじめてくる。
ふだんは何気なく過ごしていた身近な対象が、抵抗力を持って私に挑んでくるような感じ。これって、体力の限界に突き当たったときに、よく感じるような感覚と似ているのかもしれません。喘ぎながら、自然なものとして無意識に享受していた「空気」自体をまさに「物」として感じてゆくこと……。

中上健次のことを思い出してしまいました。彼は、ヤク中状態からの回復をめざして、まっとうな仕事をしようと思い、羽田空港で肉体労働(貨物の運搬員)をしていた時のことをこう書いています。

そこでは、徹底的に、〈物の思想〉と言うやつを、たたき込まれた気がする。
 物、ここでは、たとえば一個の貨物であり、空港内でつかう貨物搭載用の機材であったりする。そして、自然である。物は、言葉を語り、一個の貨物がそこに確かに在ることが、決してあなどれない思想そのものだという実感を、どう伝えたらよいか。
 たとえば、いま、ここに二トンの貨物があるとする。そばには、制限一トンのフォークリフトしかない。それしか、使えない。一トンのフォークリフトで、二トンの貨物を持ちあげるという、安全を無視した、荒っぽいことから、羽田での、物の経験ははじまったのである。[中略]
 貨物、機材、それら物を、なだめたりすかしたりして、羽田では働いたのだった。
中上健次「作家と肉体」『鳥のように獣のように』isbn:4061962604

本当は、中略した部分こそが一番大事なんですが、長々しくなるので挙げられません。でも、この「長々しくなる」部分こそが、人々が常に行っていることなのかもしれないし、省略せずにそれを述べることこそが、中上がやっていたことの還元不可能性を示しているのかもしれない。まあ、そのことは今は深くはツッコミません。

ここで言いたかったのは、中上の〈物の思想〉というものが、とてもマッシヴなものとして、動かしがたいものを動かすための実際的な問題と、それに関する知恵を必要とするものだった、ということです。中上は、なにか抽象的なことを考える際にも、そこで動いている何かが実際的な重量感を持っているか、という点に賭けていたように思われます。血も肉もある物語が書けるかどうか。路地における物語の血脈すらも、このような「抵抗感」同士の接合なしには考えることができないような気がします。このことは、中上の小説を読む際には忘れてはならない感覚なのではないでしょうか。
そこでは、なにかこう、とてもザラザラした、手のつけられないものが孕まれているような気がするのです。思考の「外部」と言うことすらも憚られるような……。

大掃除でそこまで言うのもどうかという気がしてきます。でも、この抵抗感、それをわずかでも忘れずに気にしておくきっかけになったとしたら、どんなことでも学ぶきっかけになるという(ありきたりですが)ことを確認する契機にはなりましたかね〜。

しかしバイト先だときっちり掃除するのに、自分の部屋をちゃんと片づける気になかなかならないのは何故ですかね?