変身物語

とりあえず最近になってはじめて読み、感動したので最初に挙げてみます。

 わたしが意図するのは、新しい姿への変身の物語だ。いざ、神々よ−そのような変化をひきおこしたのもあなたがたなのだから−わたしのこの企てに好意を寄せられて、世界の始まりから現代にいたるまで、とだえることなくこの物語をつづけさせてくださいますように!
オウィディウス『変身物語』(中村善也訳、岩波文庫)(上)isbn:4003212010(下)isbn:4003212029

冒頭部を引用してみました。
「とだえることのない物語」という部分が、私にとっては魅力的ですね。もちろん一つ一つの挿話のアトラクションがあったうえで、のことなんですが。物語が、決して一つで終るものではないという感覚。これがグッとくるんですよ。

これは例えば、エンデの『はてしない物語』で考えられた「物語」の「はてしなさ」と比較すると、明らかに違っているもののように思われます。
エンデの物語における「はてしなさ」とは、メビウスの環のような循環をなす「構造」的なものとして描かれていたように思います。主人公は書物の世界と現実を往還しながら、次第に互いが相互浸透してくる状態を経験する。そこからはじめて新しい物語がつむがれてゆくことになる。その意味で「はてしない」、無限の入れ子構造的な反射が考えられている。そしてそれは、最終的には物語の最初から「読者」へ投げかけられていたものであることを示してゆくことになります。

エンデ『はてしない物語isbn:4001109816

ですが、他方の『変身物語』には、黄水仙はナルシス、月桂樹はアポロンが恋したダプネ……という感じに、あらゆる動植物が神話的人物の変身したものとして描かれてゆく。『変身物語』を読んでいると、「存在するあらゆるものには、その過去に物語的な来歴を持っている」というような感じがしてくるのです。つまり、『変身物語』の特徴には、「存在する現象の由来が示される」という意味での、世界全体の「はてしなさ」が描かれている気がします(このことは、最後に出てくるピタゴラスのコメントからも類推できると思います)。

しかし、この「物語」としての自然観は、単なる錯誤、あるいは人間的観点の自然への投影に過ぎないのでしょうか? そうとばかりは言えないでしょう。

私にとっての『変身物語』の面白さは、それが「自然現象として現れたものは必ず由来を持つ」、という点にある気がします。つまり、人間の感覚に現れた現象は、いっけん「現在」にしか存在しないように思われるが、そうではない。それらは必ず「現在」ではない世界とのつながりを持っている。しかもそれらの来歴を述べることは、時間性を現象のうちに折り畳んで説明されるがゆえに、人間的な認識とは異なったものであらざるを得ない。……このようなことを、この「物語」は示唆していたりはしないでしょうか?

あらゆる現象は、人間が現在見ているような形で、無垢に無からその都度生じたものではない。それらは時間性を含みこんでいる点において、現在感覚されるような認識を超えた部分を持っており、なんらかの物語的な説明でしか述べられないような由来を持たざるを得ない−のかもしれません。

そして、これらの無数の物語は互いに錯綜しながら、時には構造めいたものを人間の思考に示しつつ、整序された時間性から逸脱しつづける迷宮をつむぎだしてゆく。
『変身物語』に託されているのは、そのような感覚であるような夢想もしてみたりします。まあ、翻訳された散文を読むかぎりでの、まったくの印象的な独断ですが……。

このことの意義は、突然とんぼ返りをしてしまうようですが、現代の資本主義が基本的に生産過程を現象としての商品のうちに抑圧している点にも関係あるような気もしますね。ベンヤミンとかの感覚って、そういうところにつながっているんじゃないかな……?
ですが。この点については、また後日によく考えてみたいと思います。まあ、急ぎません。

ともあれ、物語を聞いたり読んだりする際というのは、私たちはいくらかの「変身」をしているような気がします。自分の体が見えなくなってゆき、なにか自分と異質なものが沸々と自分のなかで蠢いてゆく感覚。この感じを描いていることだけでも、『変身物語』はすばらしい物語なのだと思います。

……いきなり長いな……。
適当に書いてゆくことにします……。