ジャン=リュック・ナンシー『私に触れるな−ノリ・メ・タンゲレ』より

「プロローグ」から。

譬えはイマージュから意味へ向かうのではない。イマージュから、すでに与えられているかどうかはともかく、〈視〉[vue]へと向かう。「あなたがたの眼は視ている、さいわいである」とイエスは弟子たちに言い、あるいは何度も繰り返される別の定型句ではこう言う、「耳のある者は聞きなさい!」。譬えは、すでにそれを理解している者にしか語りかけない。それはすでに見た者にしか示されない。他の者たちには、逆に、見るべきものを、見るべきものがあるという事実そのものを隠してしまう。こうした考えの、このうえなく偏狭かつ嘆かわしい宗教的解釈によれば、真理は選ばれた者たちに、テクストにしたがってさらに言うなら、つねにごく少数の選民に割り当てられるということになるだろう。中庸な宗教的解釈にしてみれば、さらに遠くを探し求めるように促しつつ、脆弱かつ暫定的な視野[ヴィジョン]を差し出すのが譬えであるということになる。しかし、(たとえこうした解釈が頻繁になされるとしても)このように考えることをテクストは明らかに禁じている。そうではなく、テクストは「霊的な」〈視〉の存在[=現前]あるいは不在が、譬えと直接かつ無媒介に相関関係にあるということを考えさせる。感覚=意味[サンス]の形象化あるいは字義性にいくつもの段階があるのではなく、たったひとつの「イマージュ」があり、それに対面して〈視〉あるいは盲目がある。おそらく、イエスが弟子たちに譬えのうちのひとつをかみ砕いてみせたこともあっただろう。しかしながら、そうすることでイエスは、弟子たちがすでにもっている〈視〉を彼らに向けて返還して復元するだけである。もう一度繰り返すなら、譬えは〈視〉あるいは盲目を返還して復元する。譬えは、真理において、〈視〉の贈与[=天賦]をあるいは〈視〉の欠如を与え直す。

譬えはそれゆえ、「形象=文彩[フィギュール]」から「本義=固有のもの[プロプル]」への関係のなかにあるのではなく、「仮象」から「実在」への関係のなかにあるのでもなく、またはミメーシス的な関係のなかにあるのでもない。それはイマージュから〈視〉への関係のなかにある。イマージュとは、見られているからこそ、見られるものである。イマージュが見られるのは、視力[ヴィジョン]がイマージュのうちに、イマージュによって作られるときである。同様に、視力が見るのは、それがイマージュとともに、イマージュのうちに与えられたときにのみである。イマージュと〈視〉の間にあるのは、模倣ではなく、参与[=分有participation]と浸透=侵入[pe'ne'tration]である。見えるものへの〈視〉の参与、さらには、〈視〉そのものにほかならない見えないものへの、見えるものへの参与である(ミメーシス[模倣]のなかのメテクシス[分有]、それはおそらく、キリスト教的発明が実を結ぶ、ギリシア的なものとユダヤ的なものの交叉配列法[キアスム]の言表のうちのひとつである)。
[……]
 こうしてテクスト−−あるいは言葉[パロール]−−は、テクスト固有の意味より前に(あるいは限りなく意味の彼方に)、何よりまず、その聴者を要求する。このテクストの固有な聴衆にすでに参入しており、その結果このテクストそのもののなかに、意味の、あるいは意味の越境の最も内密なテクストの運動のなかに、そしてテクストの無為[de'soeuvrement]のなかに参入している聴者を要求する。この要求は、譬えが聞くことのできる耳を待望しているということ、そしてまた、その人自身の聴取の能力へと耳を開くことができるのは唯一、譬えそれ自体であるということを意味している。同様に、かなり後になってから論じられることではあるが、一人の著者は彼/彼女に固有の[propre]読者を見つけなければならず、あるいは同じことだが、その著者が自分自身の[propre]読者を創出する。つねにそれは、意味=感覚の、あるいは意味=感覚を越えるもの[l'ouvre-sens]の、突発的出現[surgissement]である。それはつまり独異な木霊[エコー]である。その木霊のなかで、私には聞こえる。他者の声で、ほかでもない私自身の耳であるかのように、他者の耳へと、私は自分に話しかけ、自分に応えている。
 これは、信仰[croyance]から信[foi]を調停の可能性なく分かつものではないだろうか。というのも、信仰が〈同じであること〉を他者のうちに措定[poser]あるいは想定し[supposer]、その〈同じであること〉のなかで自己同定し、自らを鼓舞する(彼は良い人、彼は私を救う)のに対して、信は、私自身も知らずにいる聴取へと放たれた狼狽する呼びかけが、他者から差し向けられるがままにするのだから。しかし、文学、芸術、宗教といった、ことば=境界[termes]それぞれをその真理全体において理解している限りにおいて、このように信から信仰を分かつものは、文学や芸術から宗教を分かつものと一致することになる。実際、重要なのは聞くことだ。われわれの耳や眼を開き、その開示において輝きつつ消えゆく当のものを、われわれ自身の耳が聴いているのを聞きとること、われわれの眼が視ているのを見てとること。