『マルチチュードの文法』

とても面白い。

マルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するために

マルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するために

「生政治」という概念は〈ポストフォーディズム期においてはパフォーマティヴィティとしての「労働力」(可能的な力能)こそが商品化した〉という事態を根底に置かないと空虚なものになるという指摘と、マルチチュードの意義はあくまでも〈両義的〉なものだ…とする態度はかなり信頼できるものだと思う。これはマルチチュードの積極性を取り出す際には注意していなければならない点でしょう。この角度からアガンベンの議論を批判している。「日本語版序文」より。

「生政治」とは何を意味しているのでしょうか。生の統治、一切の個別な形容を欠いた生そのものの統治。なるほど、しかし、そうだとしたら、この生の統治は何に由来するものなのでしょうか。ジョルジョ・アガンベンは、彼の著作『ホモ・サケル』において、生政治を、古代ローマ法にもナチスの収容所にも同様に当てはまるような国家主権のひとつの不変的特徴としていますが、私にはこれは間違いであるように思えます。第一に、私の考えでは、生の統治は、現代資本主義と密接に結びついたひとつの現象であり、また第二に、こちらのほうがより重要なのですが、こうした統治は、もう一つの事実−非常に基礎的な事実−の〈結果=効果[エフェクト]〉に過ぎないからです。すなわち、労働力商品が存在するという事実の〈結果=効果〉に過ぎないのです。労働力というものは、周知の通り、実際に実行された労働のことではなく、労働することの純然たる力(potenza)のことです。[……]力能は、それ自体ではまだ非実在的であるからこそ、労働者の生きた身体と不可分なのです。そして、このために、このためにのみ、資本主義は「生政治的なもの」となるのです。「剥き出しの生」の面倒を見る必要があるとすれば、それは、生物学的人体が、真に重要なものの土台となっているからなのです。すなわち、労働力の土台、生産することの精神的身体的力能の土台、〈思考すること−話すこと〉の肉体的能力の土台となっているからなのです。この脈絡を見失うと、生政治をひとつの派手な神話に仕立て上げることになってしまいます。

訳者の廣瀬純さんのあとがきに「本書は引用されることを望まない。実践されることを、あるいは実践に「利用される」ことを望んでいる」と書いてあるのに長々引用してしまったYO…orz まあ、これは「真面目な学術論文」ではないので許してもらえるといいな…。
ともかく、実質的な争点が「労働力」であるという主張には重要性があると思います。同じく「訳者あとがき」には(ヴィルノの本ではないですが)『アルゼンチン 社会の実験室』[仮題]なる本の出版予告も書かれており、月曜社さんには期待が高まります。ちなみに帯には「現代社会理論・現代思想の重要概念と政治的実践とを結びつける講義形式の入門書」と書かれてありますが、ホッブズスピノザドゥルーズフーコーベンヤミンアリストテレスマルクスといった思想家たちにおける「重要概念」の「入門書」としても確かに優れているのではと思いました。