60年代のガイドブック

今日書店の平積みで見て仰天。こんなんまで出てるのか…。
要するに安田講堂を見て闘争の思い出に浸るとか、そういう60年代の事跡をたどってみようというガイドブック。団塊の世代恐るべし。
だが、先日の『図書新聞』で、山城むつみが確かネグリのヨブ本を書評しつつ、ノスタルジーに陥る団塊の世代に対して「これ以上ないほどみじめな敗北であったことをごまかすな」という怒りを表明していたことを考えると、この風潮はどうかとも思う。
ヨブ―奴隷の力

ヨブ―奴隷の力

ちなみに同様のことは、例えば、出版社である工作舎の編集長もエッセイで語っていたりする。
http://www.kousakusha.co.jp/KEC/skip065.html
http://www.kousakusha.co.jp/KEC/skip066.html

70年代の『遊』の読者には、おそらく全共闘運動型組織への幻滅を抱えて、「遊線放送局」や「遊人紹介」を読みふけっていた向きも少なくなかっただろう。

こういった叙述のなかにわたしの世代にはわかるようなわからないような、世代的な難しさがある気がする(ついでに言えば、工作舎のHPに連載されているエッセイは面白いと思いますよ、ええ。http://www.kousakusha.co.jp/KEC/kechome.html)。
さらに例を挙げれば、一見わたしには全く政治的ではないように思えていた高山宏のような人も、しばしばこの全共闘型組織への憧憬と挫折と反発をそこかしこで匂わせていたりする。確か↓の後書きなんかでもそんなニュアンスのことを書いていたと思うが、どうだったろうか。

殺す・集める・読む―推理小説特殊講義 (創元ライブラリ)

殺す・集める・読む―推理小説特殊講義 (創元ライブラリ)

『「燃える東京」を歩く』に話を戻せば、『もえるるぶ』と重ね合わせると、JTBパブリッシングは世代別にテーマを提示してそのツボに合わせたガイドを作ってゆく、という方針をとっているようですね。それはそれで面白い企画だと言えそうだが、それぞれの興味のカテゴリーが既に世代別に分断されており、「わかる人だけわかればいい」というような閉じた感じがあるところが非常に気になる。あえて愚直にいえば、それはやはり退行的ではないだろうか?